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「君たちはどう生きるか」2023.

 金曜ロードショーを録画していま頃観た。 現実とは物語の素材でしかない。大胆なドラマツルギーの提示に「思い切ったことするなあ」と俺は感心した。しかし終盤。それは戯作者の思い上がりであり、そのような倨傲と独立して世界は実在する、として、主人公は物語(理想郷。王位の継承)を拒否し、悪意、暴力、矛盾に満ちた現実に帰っていく。世界は戯作者(神)の素材ではない、我々(ひと)はここで現実に生きているのだ、と。これはナウシカで墓所の主の誘いを、生命は光だと言う向日性のイデオロギーを峻拒したのと同じ展開である(VerySpecialOnePattern)。 奥さんの美しい顔が鳥の白い糞尿まみれに汚れるのは「顔射」であり、少年の精通を暗示している。つまりこれは少年版魔女の宅急便である。彼は労働し屠畜し夢精し男になった。あるいは森の中で実際に義母と密会し童貞を失ったのである(ご丁寧に遣り手ババアも用意されている)。個人教授とか個人授業とかいうタイトルのイタリアンソフトポルノ(若く美しい義母とのひと夏の体験、とかいうあれ)も駿の手にかかればこのようにソフィスティケイトされる。導入部の濃密濃厚なエロティシズム、あからさまな誘惑が無意味な描写であるはずがない。 落ちてきた石くれは言うまでもなく突き立った巨大なファロスであり、そこから最後白濁液が勢い良く噴出する(宮崎作品であからさまに「宇宙人の超技術」なるベタなSF展開が登場するのはこれが初めてだと思う。異界のマレビトくらいの意味合いしかないとは思うが唐突でいささかとまどう)。 見てはならぬ巨石の穴はもちろんファロスの対応物、女陰であろう(奥で光っているのは濡れている、の表現でもある)。 リトルニモという企画にどれだけ宮崎が魂と労力を注ぎ込んだか(無能ゲイリーカーツのせいで実現しなかったことをどれだけ恨んでいるか)の片鱗も伺われる(すべてはあの部屋の、鉄製のベッドで紡がれた夢かもしれないのだ )。それが「宮崎駿戦前自叙伝シリーズ」二作ともに反映しているのは偶然であろうか。 侵略戦争に狂奔した大日本帝国は、戦後の青年コミュニスト宮崎にとって絶対に復活させてはならないギガント、敵であった。しかし自叙伝シリーズ二作において戦前の身分制社会は隠しようもなく懐古、郷愁で染め上げられている。アパークラスの生活は金銭面物質面のみならず精神的にも丹精...