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叫ぶ指揮者の謎、解明

 1980年前後。NHK FMの録音に違いないのだが、ブルックナーの九番をカセットに録音。ずいぶんヘビーローテーションで聴いた。 転居転居でそのカセットは散逸したのだが記憶の中のそれはずっと生きている。クラシックあるあるだろうが、要するに最初に聴いた演奏が正解になる。あれをまた聴きたいと思ってそのあたりの音源を店で漁るのだがまったくヒットしない。ヴァントなのか、マゼールなのか。 演奏の細部まで細かく覚えているのに前後にあったはずの指揮者、オケの名を語るナレーションを微塵も思い出せない。 先般アップルの「クラシック」を契約、探してみたがどれも違う。なにが違うって、「叫んでない」のだ。俺が繰り返し聴いたそれは曲の中で誰かが叫んでいる。交響曲の演奏中に大声で叫ぶことが許されるのはどう考えても指揮者以外にいない(いや、指揮者だって普通叫ばない)。つまり叫ぶ指揮者だ。 そういう条件で検索すると昨今はAIが答えてくれる。「叫ぶ指揮者といえばジュリーニですね」「ハイティンクですよ」「チェリビダッケに決まってます」。毎回答えが違う。それを信じて聴いてみるがやはりどれも違う。アップルミュージックの中にはない。 どうもチェリビダッケがあやしい、74年録音のCDが怪しいと思って購入したが聴いてみると「コレジャナイ」。 おカネと時間だけが空しく費消されていく。 万策尽きた俺が無気力に漫然とyoutubeで「81年 ブルックナー 九番」で検索をかけたら、それはいとも簡単にヒットした。 CD音源なのだが、元の音源はカセットテープのエアチェックらしい(このブログに詳しい)。確かにナロウレンジのひどい音。 しかしこれだ。一発でわかった。叫んでいる。これだ。タイミングも、なにからなにまで記憶通り。正解。 あっけないものだ。 幻の音源をたどる40年越しの旅が、いま、ようやっと、終わった。 Youtubeを検索するくらいで簡単にヒットしたことは、俺の探索がいままで実にずさん、熱意を欠いたものであったかを示している。と同時に、俺の怠慢ばかりでない事情も調べれば調べるほど浮かび上がってくる。 これは「次節が到来した」というやつだ。師匠(辻潤)の言ってた通りだ。「機縁がなければすべて駄目だ」 まず1,これがチェリビダッケの指揮であったため、いままで封印されていたという事情。 解禁はおそらく2011年頃...
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「教皇選挙」Conclave, 2024.

 アマプラで観た(いま頃)。 読後もとい視聴後感はひたすら爽やか! なんと清々しい話なのだろう。正義が勝ち、悪は滅びた。 バチカンって、キリスト教ってなんて素晴らしいんだろう! いやそうじゃない。ここに描かれているのはまったく普遍的な正義、誠実。まさにインノケンティウス。だから宗派を超えて人間すべてが共感できる。舞台が仏教寺院だろうがイスラム聖職者だろうが、どこででも成立する。人間の愚かさと醜さと素晴らしさの話だ。 タイトルの「選挙」がまた重要だ。インノケンティウスが選ばれた。それはすなわち、選んだ枢機卿たちのイノセンス、その証なのであるから。バチカンにおいてイノセンスが多数派を占めたのだ。

「キルケーの魔女」

 けさ観てきた。 ショッピングセンターがいちばんこたえた。 死、戦争、暴力は映画、ドラマ、アニメで日常に描かれるものだけれど、村瀬氏の筆致は本作で一次元上のリアリティーに到達していると感じた。より残虐? そうではない。むしろ「死んだ彼女」はドアの隙間からその手しか覗かない。抑制的な映像が言葉をより重くしている。村瀬演出は引き算なのだ。 省略の美学は潜望鏡にも如実で、作品はその瞬間を描かない。描いたらその衝迫はむしろ減じただろう。 船長、クルー、生きていてくれと本気で願う。俺はマフティーのみんなが好きだ。 ビームライフルの直撃、ビームサーベルの斬撃でひとが怯えながら死ぬ光景も幾度となく見てきたはずだが、レーンエイムの怯えは異次元である。「うわー死ぬわ、俺死ぬわまじ死ぬわ五秒後に死ぬわ、勘弁してくださいよもー」。 そのリアリティーを感じまた彼が助かったとき本気で安堵したのはもちろん俺がレーンエイムを好きだからに他ならない。マフティーの気持ちのよいクルーたちと同じくらい彼はまっすぐで感じが良い。「はあ? マフティーが観光地にィ? バッカじゃね? バッカじゃね? あるわけねえじゃん」「なんでいんだよ! わー! もうあったまきた!」。こんな青年好きにならないはずがない。 CGのクオリティーが上がり過ぎてしまった問題、がある。かなり実写寄りで、アニメーション部分と違和が生じている。しかしおそらく、人間は、慣れる。 前作は希望の物語(叛乱軍が帝国を退け凱歌を挙げる)であったが今作は毛色が違う。最後の勝利の前に主人公が一旦は挫折する、その章に当たるものだろう。が、原作(未読)が原作である。この光景には既視感がある。 わたしたちはどんどんみっともなくなっていく赤い彗星を既に知っている。生き恥晒しなお生きるギジェザラルを知っている。先の邂逅においては圧倒的な格の違いを見せつけたハサウェイが今度は逆に「猫騙しにやられる側」となっている。正常な判断力を喪失し幻影と戦っていた(机竜之助さながら)のだからむしろ彼がやられておかしくなかった場面だ。 トラウマから錯乱する様子は前作のエメラルダそのもの、いや、それ以上の醜態だった。あの「頭ぽんぽん」仕草にハサ自身が復讐されているのだ。計算してこの構成なのであれば富やんさすがと言わざるを得ない。 このかつてもっともおとなで冷めていたリーダー、...

「秋刀魚の味」1962.

 NHKBSの録画をいま頃観た。というか、小津初完走(以前別の作品を最初の十分位で脱落している)。 つまらん! 観終わるのに二ヶ月くらいかかった。まあつまらん! 話と文法が退屈なのに加えて決定的なのはあの腑抜けた劇伴である。「秋刀魚の味メインテーマ」と言っていいだろうあの旋律。ニュースフィルム「未来がここに 多摩ニュータウン」の劇伴としてそのまま通用しそうな没個性的で当たり障りのない、ドラマチックの語と真反対の楽曲。 その旋律がなんとあの、ひょうたんの家で彼女が泣くシーンにまで明るく流れている(ここはストーリー上重要な意味を持つシーンであるはずだ)。楽曲の使用におよそ「演出」が感じられない。音がないと寂しいから、くらいの理由で、エレベーターミュージックと等価値にそれが存在している。 これはどういうことなのか。あとで判明するのだがそれはひとまず措く。 いま記した彼女が泣くところ。これがまたよくわからない。ストーリーの理屈としてはわかる。しかしひょうたんは法外に泥酔して帰宅したわけでもない。酔漢としては比較的扱いやすい部類としておとなしく帰ってきた。巨大な恥辱としてさめざめと泣くほどではない。 そしてメガネが「ああなっちゃあおしまいだ。おい、お前の娘もああなるぜ」と言うのもわからない。俺からすれば彼女らを「おしまい」にするのはメガネ、お前の、お前らのそういう「常識」だろうとしか思えない。 嫁がぬことのなにが悪い。 父親のせいで彼女がそうなった。それこそ彼女の自主性、自律性に対する侮辱であろう。 ここでわからぬのがつまり小津の意思である。 俺は小津映画を完走したのはきょうが初めてだ。だから小津の作家性、思想、信条、主張がさっぱりわからない。 このシーンでつまり小津は何を言いたいのか? がいちいち計りかねるのである。 笠智衆演ずる主人公はおそらくそこそこ高学歴で(だから戦時も士官であった)いまの職業も社会のアパークラスと言っていいはずの身分、収入に見える。高度経済成長の原動力となった石油、それを精製する会社の現業ならぬ事務管理部門で秘書付き執務室付きの上級職に就いている(石油はアメリカとの開戦事由となった戦略物資である。この職業設定はたぶん偶然ではない)。 彼はどこか達観しており、誰になにを言われても「そうかね」で受け流す。かといって人物かというと、岩下志麻演ずる長...

「FLEE」Flugt, 2021.

 教育テレビの録画をいま頃になって観終わった。 つらい話だし、正直映画としては退屈である。だから十分ずつくらいたまにちびちび観ていた(飽きるのだ)。 しかし終盤のアレにはやられた! 「あーあ、兄ちゃん、カネ持たせちゃって。女買ってスッキリしてこい! 童貞捨ててこい! って。兄ちゃんも男だからわかる! ってか? なんにもわかってない。駄目だなあ昭和だなあ」と思ってしまった次の瞬間。 いや感動しました。山場です。この映画はこの瞬間のためにあった。最後まで観てほんとによかった。 アミンの幸福感がじかに伝わってきた。どれだけ嬉しかったか。そういう楽しい場所にいる喜びと、兄に全面的に受容してもらえた、十全に理解してもらえた喜びと。
「参政党、24ヶ月で消えてなくなります。今回の参議院選挙で占めた議席、来年の臨時国会ではなくなってます。自民党会派に合流します。 多分俺日本でいちばん右翼団体見てきたと思うけど、必ずそうなります。でなにで揉めるか言うたらカネで揉めます。 来年の臨時国会の頃には参議院の会派の票がなくなってます。議席がなくなってます。 戦後の右翼団体で、コレ(カネ)と、コレ(おめこ)で分裂しなかったのは日本会議だけ。日本会議ていうか日本青年協議会以外のすべての右翼団体はコレ(カネ)かコレ(おめこ)で分裂してます。もっぱらコレ(おめこ)なんですけどね。 まあ見ててみ。ほってても大丈夫」 「少なくとも歴史認識は、日本史の教科書の 山川準拠の偏差値70レベルにあんのが石破茂です。偏差値30の人間が50年談話を後退したら偏差値70の人間が50年談話に戻すのが義務でしょうがよ。 そうでしょ? 村山談話でようやく、社会党が日の丸と自衛隊を認める代わりにあの戦争が侵略であったこと、あの戦争が植民地支配の果てにあったことを日本の政府は50年かけて認めたんです。その20年後に偏差値30の安倍晋三がそれを後退させたんです。それは自民党政権のせいです。だったら自民党がちゃんと責任取って、50年談話のレベルに日本の戦争の総括を戻さなきゃ。 それができるのは、ええか悪いかは別として、石破茂しかおらんのです。 70年談話は間違いだったの! 植民地支配と侵略行為に対する真摯な反省と謝罪がなかった70年談話は間違いだったんだから、80年談話で50年談話に戻さなきゃだめなの。 それを、自民党の総裁は、我が国の歴史に責任を持つ保守政党として、やる責務があるはずですし、そして、石破茂という個人は、それをやれる能力があるはずです。林芳正と、石破茂と、村上誠一郎が並んでて、それができひんかったら、古き良き自民党そのものが崩れるんです。 我々はけして自民党の政権の永続を求めるものでも、政権交代をやめようというものでもないが、しかし80年談話だけは、石破茂にしか書けないはず! それが自民党の責任の取り方であり、それが安倍晋三という悪魔を葬り去る、唯一の方法であるはずです。 自民党に責任を取らせるためにも、80年談話は、石破茂によって書かれるべきです。 そして80年談話を、村山談話のレベルに引き戻すという仕事を花道に...