スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

わたしとブルックナー

 「叫ぶ指揮者」の頁でも書いた通りいまに至るまで格別のクラシックファンではない。どころか音楽全般について好みのジャンルも詳しいジャンルもいまだないままだ。むしろ聴けば聴くほどわからなくなってきた。 自分には好きな音楽など実はないのではないか。 「ふむ。聴かせてもらったが……自分には良さがまったくわからん」。「富士に立つ影」で熊木公太郎が発した言葉に自分は衝撃を受けたのだからたぶん自分も本当のところはその口なのだ。音楽に実は感興など抱いていない。好きなふりをしている。そのほんとうのところをただ人前で言う勇気がなくて他のひとと同じように人間のふりをしている。 実はここらへんの感覚とブルックナーに惹かれる感覚は無関係ではない。 少年の自分がたまたまエアチェックしたブルックナーの第九を「なんだこれ?」とはてなマークだらけになりながらそれでもヘビロテで飽かず聴いていたのもいまから振り返ってみると「それ」ゆえなのだと思う。 ベートーヴェン。途中をすっ飛ばしてマーラー。交響曲なるものを駆け抜けて聴いてきた自分からするとこれは明らかに異質な音楽だった。未完成に由来するばかりではない明白な欠落がある。 面白いもので芸術、科学はジャンルを異にしても不思議と大体同じ進化、盛衰を辿る。写実を極め精緻に描かれた泰西名画の極北、そこから急に写実性を放棄、代わりに見る快楽、色の愉悦を獲得した印象派。ブルックナーを印象派に分類するのは明らかに暴論なのだが、しかし明白にビルドゥングスロマンではない。苦悩に打ち勝ち歓喜に至る、そういう物語も因果律もここにはない。マーラーですらベートーヴェンを引きずる古典力学だった。ブルックナーの絢爛な色彩に理由はない。空無から気まぐれに生まれすぐ対消滅する粒子の儚さがある。(この頁途中)
最近の投稿

叫ぶ指揮者

 1980年前後。NHK FMの録音に違いないのだが、ブルックナーの九番をカセットに録音。ずいぶんヘビーローテーションで聴いた。 いまに至るまで格別のクラシックファンでもなんでもない。ラジカセを持った少年にとってFM放送のエアチェックは貧者の娯楽である。テープだって十数本しか所持しなかったがその限られたメディア容量の中に音楽総体の地図をなんら持たないままノンジャンル、適当に録り、繰り返し聴いていた。 転居転居でそのカセットは散逸したのだが記憶の中のそれはずっと生きている。クラシックあるあるだろうが、要するに最初に聴いた演奏が正解になる。あれをまた聴きたいと思ってそのあたりの音源を店で漁るのだがまったくヒットしない。ヴァントなのか、マゼールなのか。 演奏の細部まで細かく覚えているのに前後にあったはずの指揮者、オケの名を語るナレーションを微塵も思い出せない。 先般アップルの「クラシック」を契約、探してみたがどれも違う。なにが違うって、「叫んでない」のだ。俺が繰り返し聴いたそれは曲の中で誰かが叫んでいる。交響曲の演奏中に大声で叫ぶことが許されるのはどう考えても指揮者以外にいない(いや、指揮者だって普通叫ばない)。つまり叫ぶ指揮者だ。 そういう条件で検索すると昨今はAIが答えてくれる。「叫ぶ指揮者といえばジュリーニですね」「ハイティンクですよ」「チェリビダッケに決まってます」。毎回答えが違う。それを信じて聴いてみるがやはりどれも違う。アップルミュージックの中にはない。 どうもチェリビダッケがあやしい、74年録音のCDが怪しいと思って購入したが聴いてみると「コレジャナイ」。 おカネと時間だけが空しく費消されていく。 万策尽きた俺が漫然とyoutubeで「81年 ブルックナー 九番」で検索をかけたら、それはいとも簡単にヒットした。   CD音源なのだが、元の音源はカセットテープのエアチェックらしい( このブログ に詳しい)。確かにナロウレンジのひどい音。 しかしこれだ。一発でわかった。叫んでいる。これだ。タイミングも、なにからなにまで記憶通り。正解。(※注1) あっけないものだ。 幻の音源をたどる40年越しの旅が、いま、ようやっと、終わった。 Youtubeを検索するくらいで簡単にヒットしたことは、俺の探索がいままで実にずさん、熱意を欠いたものであったかを示し...

私家版 ブルックナーメモ

  リリース 演奏年 2017 1972 2 デニスラッセルデイヴィス リンツブルックナー管 Live 1974 9 チェリビダッケ コレジャナイ 1977 9 ジュリーニ △ 1,2,雑い。コレジャナイ。3,まあまあ。 1981 9 チェリビダッケ ミュンヘン Live ◎ これ。叫んでる 1982 9 ハイティンク コンセルトヘボウ 叫びなし? 1982 9 ヨッフム ドレスデン 1,これじゃない。2,これじゃない。3,よい。重厚。 1985 5 チェリビダッケ ミュンヘン ◯ 5番は最後の三分がカッコイイ。あとは退屈 1995 9 チェリビダッケ ミュンヘン 3,のろすぎる。 2020 2005 3 マリスヤンソンス バイエルン放送 Live 2006 8 スクロヴァチェフスキー N響 △ んー。 2008 8 ティーレマン ベルリン Live ◯ ふつー 2009 4 マリスヤンソンス ロイヤルコンセルトヘボウ 2013 7 スクロヴァチェフスキー ロンドンフィル △ 7番自体最後の三分くらいしか聴きどころがない。 2013 1 クラウディオアバド ルツェルン音楽祭管 ◯ 2020 7 パーヴォヤルヴィ 2020 94 ヨハネスヴィルトナー ウェストファリア ◯ 最後の三分がカッコイイ。ブルックナーの仕事がこれで終わった感 0 ロリン・マゼール バイエルン 2023 2010 5 ブロムシュテット ライプツィヒゲヴァントハウス Live 最後の四分がカッコイイ

「教皇選挙」Conclave, 2024.

 アマプラで観た(いま頃)。 読後もとい視聴後感はひたすら爽やか! なんと清々しい話なのだろう。正義が勝ち、悪は滅びた。 バチカンって、キリスト教ってなんて素晴らしいんだろう! いやそうじゃない。ここに描かれているのはまったく普遍的な正義、誠実。まさにインノケンティウス。だから宗派を超えて人間すべてが共感できる。舞台が仏教寺院だろうがイスラム聖職者だろうが、どこででも成立する。人間の愚かさと醜さと素晴らしさの話だ。 タイトルの「選挙」がまた重要だ。インノケンティウスが選ばれた。それはすなわち、選んだ枢機卿たちのイノセンス、その証なのであるから。バチカンにおいてイノセンスが多数派を占めたのだ。

「キルケーの魔女」

 けさ観てきた。 ショッピングセンターがいちばんこたえた。 死、戦争、暴力は映画、ドラマ、アニメで日常に描かれるものだけれど、村瀬氏の筆致は本作で一次元上のリアリティーに到達していると感じた。より残虐? そうではない。むしろ「死んだ彼女」はドアの隙間からその手しか覗かない。抑制的な映像が言葉をより重くしている。村瀬演出は引き算なのだ。 省略の美学は潜望鏡にも如実で、作品はその瞬間を描かない。描いたらその衝迫はむしろ減じただろう。 船長、クルー、生きていてくれと本気で願う。俺はマフティーのみんなが好きだ。 ビームライフルの直撃、ビームサーベルの斬撃でひとが怯えながら死ぬ光景も幾度となく見てきたはずだが、レーンエイムの怯えは異次元である。「うわー死ぬわ、俺死ぬわまじ死ぬわ五秒後に死ぬわ、勘弁してくださいよもー」。 そのリアリティーを感じまた彼が助かったとき本気で安堵したのはもちろん俺がレーンエイムを好きだからに他ならない。マフティーの気持ちのよいクルーたちと同じくらい彼はまっすぐで感じが良い。「はあ? マフティーが観光地にィ? バッカじゃね? バッカじゃね? あるわけねえじゃん」「なんでいんだよ! わー! もうあったまきた!」。こんな青年好きにならないはずがない。 CGのクオリティーが上がり過ぎてしまった問題、がある。かなり実写寄りで、アニメーション部分と違和が生じている。しかしおそらく、人間は、慣れる。 前作は希望の物語(叛乱軍が帝国を退け凱歌を挙げる)であったが今作は毛色が違う。最後の勝利の前に主人公が一旦は挫折する、その章に当たるものだろう。が、原作(未読)が原作である。この光景には既視感がある。 わたしたちはどんどんみっともなくなっていく赤い彗星を既に知っている。生き恥晒しなお生きるギジェザラルを知っている。先の邂逅においては圧倒的な格の違いを見せつけたハサウェイが今度は逆に「猫騙しにやられる側」となっている。正常な判断力を喪失し幻影と戦っていた(机竜之助さながら)のだからむしろ彼がやられておかしくなかった場面だ。 トラウマから錯乱する様子は前作のエメラルダそのもの、いや、それ以上の醜態だった。あの「頭ぽんぽん」仕草にハサ自身が復讐されているのだ。計算してこの構成なのであれば富やんさすがと言わざるを得ない。 このかつてもっともおとなで冷めていたリーダー、...

「秋刀魚の味」1962.

 NHKBSの録画をいま頃観た。というか、小津初完走(以前別の作品を最初の十分位で脱落している)。 つまらん! 観終わるのに二ヶ月くらいかかった。まあつまらん! 話と文法が退屈なのに加えて決定的なのはあの腑抜けた劇伴である。「秋刀魚の味メインテーマ」と言っていいだろうあの旋律。ニュースフィルム「未来がここに 多摩ニュータウン」の劇伴としてそのまま通用しそうな没個性的で当たり障りのない、ドラマチックの語と真反対の楽曲。 その旋律がなんとあの、ひょうたんの家で彼女が泣くシーンにまで明るく流れている(ここはストーリー上重要な意味を持つシーンであるはずだ)。楽曲の使用におよそ「演出」が感じられない。音がないと寂しいから、くらいの理由で、エレベーターミュージックと等価値にそれが存在している。 これはどういうことなのか。あとで判明するのだがそれはひとまず措く。 いま記した彼女が泣くところ。これがまたよくわからない。ストーリーの理屈としてはわかる。しかしひょうたんは法外に泥酔して帰宅したわけでもない。酔漢としては比較的扱いやすい部類としておとなしく帰ってきた。巨大な恥辱としてさめざめと泣くほどではない。 そしてメガネが「ああなっちゃあおしまいだ。おい、お前の娘もああなるぜ」と言うのもわからない。俺からすれば彼女らを「おしまい」にするのはメガネ、お前の、お前らのそういう「常識」だろうとしか思えない。 嫁がぬことのなにが悪い。 父親のせいで彼女がそうなった。それこそ彼女の自主性、自律性に対する侮辱であろう。 ここでわからぬのがつまり小津の意思である。 俺は小津映画を完走したのはきょうが初めてだ。だから小津の作家性、思想、信条、主張がさっぱりわからない。 このシーンでつまり小津は何を言いたいのか? がいちいち計りかねるのである。 笠智衆演ずる主人公はおそらくそこそこ高学歴で(だから戦時も士官であった)いまの職業も社会のアパークラスと言っていいはずの身分、収入に見える。高度経済成長の原動力となった石油、それを精製する会社の現業ならぬ事務管理部門で秘書付き執務室付きの上級職に就いている(石油はアメリカとの開戦事由となった戦略物資である。この職業設定はたぶん偶然ではない)。 彼はどこか達観しており、誰になにを言われても「そうかね」で受け流す。かといって人物かというと、岩下志麻演ずる長...

「FLEE」Flugt, 2021.

 教育テレビの録画をいま頃になって観終わった。 つらい話だし、正直映画としては退屈である。だから十分ずつくらいたまにちびちび観ていた(飽きるのだ)。 しかし終盤のアレにはやられた! 「あーあ、兄ちゃん、カネ持たせちゃって。女買ってスッキリしてこい! 童貞捨ててこい! って。兄ちゃんも男だからわかる! ってか? なんにもわかってない。駄目だなあ昭和だなあ」と思ってしまった次の瞬間。 いや感動しました。山場です。この映画はこの瞬間のためにあった。最後まで観てほんとによかった。 アミンの幸福感がじかに伝わってきた。どれだけ嬉しかったか。そういう楽しい場所にいる喜びと、兄に全面的に受容してもらえた、十全に理解してもらえた喜びと。