金曜ロードショーを録画していま頃観た。
現実とは物語の素材でしかない。大胆なドラマツルギーの提示に「思い切ったことするなあ」と俺は感心した。しかし終盤。それは戯作者の思い上がりであり、そのような倨傲と独立して世界は実在する、として、主人公は物語(理想郷。王位の継承)を拒否し、悪意、暴力、矛盾に満ちた現実に帰っていく。世界は戯作者(神)の素材ではない、我々(ひと)はここで現実に生きているのだ、と。これはナウシカで墓所の主の誘いを、生命は光だと言う向日性のイデオロギーを峻拒したのと同じ展開である(VerySpecialOnePattern)。
奥さんの美しい顔が鳥の白い糞尿まみれに汚れるのは「顔射」であり、少年の精通を暗示している。つまりこれは少年版魔女の宅急便である。彼は労働し屠畜し夢精し男になった。あるいは森の中で実際に義母と密会し童貞を失ったのである(ご丁寧に遣り手ババアも用意されている)。個人教授とか個人授業とかいうタイトルのイタリアンソフトポルノ(若く美しい義母とのひと夏の体験、とかいうあれ)も駿の手にかかればこのようにソフィスティケイトされる。導入部の濃密濃厚なエロティシズム、あからさまな誘惑が無意味な描写であるはずがない。
落ちてきた石くれは言うまでもなく突き立った巨大なファロスであり、そこから最後白濁液が勢い良く噴出する(宮崎作品であからさまに「宇宙人の超技術」なるベタなSF展開が登場するのはこれが初めてだと思う。異界のマレビトくらいの意味合いしかないとは思うが唐突でいささかとまどう)。
見てはならぬ巨石の穴はもちろんファロスの対応物、女陰であろう(奥で光っているのは濡れている、の表現でもある)。
リトルニモという企画にどれだけ宮崎が魂と労力を注ぎ込んだか(無能ゲイリーカーツのせいで実現しなかったことをどれだけ恨んでいるか)の片鱗も伺われる(すべてはあの部屋の、鉄製のベッドで紡がれた夢かもしれないのだ)。それが「宮崎駿戦前自叙伝シリーズ」二作ともに反映しているのは偶然であろうか。
侵略戦争に狂奔した大日本帝国は、戦後の青年コミュニスト宮崎にとって絶対に復活させてはならないギガント、敵であった。しかし自叙伝シリーズ二作において戦前の身分制社会は隠しようもなく懐古、郷愁で染め上げられている。アパークラスの生活は金銭面物質面のみならず精神的にも丹精で美しい(だから庶民の怨嗟は時宜さえ適えば残忍に噴出する。戦争とは支配階級に向けられるそれを欺瞞する装置だ)。宮崎にとって少年期はひとつの感情で裁断しようのないアンビバレントなアマルガムだ。夢、非現実という迂路がなければ向き合えないし、また、迂路を通ってでもそれを描きたいという宮崎の情熱が、この老齢にしてほとばしっている。その生命力、凶暴とも言える創作力に若輩の弱々しい俺達はただたじろぐ。
2025年6月24日追記:
原作? の岩波文庫を読んだ。読み始めるにどうもこの小説? の単純な映像化ではなさそうだ。Inspired fromの類であろうか? などなど思いながら読む。
冒頭の「分子」から辟易した。えー、この程度の凡庸な着眼をベタ褒めするインテリの叔父さん。口調からなにから少年探偵団シリーズの小林少年と明智小五郎で、つまり下心あっての甘やかしかとすら疑った。
これはつまり当時の少年雑誌かなにかの連載で、ガキのくだらない感想を大人が過剰に持ち上げおだてつつ教育的注釈を加える、そういう科学読み物の類いか。
ところがこの退屈なエピソードが終盤ある種のミスリードであることが判明する。少年を過剰に持ち上げる叔父さんの態度も。ある事件を境に叔父さんは真反対に容赦ない審問官となって少年を厳しく断罪するのだ。甘えも妥協も一切許さない。そして宣する。「人間は分子にあって分子にあらず。ただただ玉突きの玉のように周囲に衝かれるまま動かされる無意思の玉ではない。君は自らの意思によって動く向きを変えることができるのだ。逃げるな、闘え!」
分子のエピソードは、機械論的決定論に対する自由意志、人間意思の叛旗、それを叙述するための伏線であったことがここに判明するのである。
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