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8月, 2019の投稿を表示しています
SKOS、暗闇の音楽。 ゾンビーズ、オデシー。 ブラッドオレンジ。ベルガモット。カシューナッツカシューアップル。 本物ジュース専門店じるじるみじる。 「最近は暗くしないと寝れない。松村さんは入眠時間15秒」 「血を見るの嫌です」 「なんかおっきいひとがいんな」ドクタージョン。
SKOS、連なりの音楽。 秋田土砂災害警戒情報。 猫、手を上に置き直す。 ハッタリ。口上。ブラフ。 「これァハッタリやないで」。ハッタリングカフェマタハリのハットリさん。 ギンギンヨーデルベルカント。

『三体』

  めちゃくちゃ面白かった。いままで読んだ本の中でいちばん面白いんじゃないか。 面白い映画が5、6本この一冊に詰まってる感じがある。それで二千円。コスパ良過ぎだよ。そういう褒め方するあれじゃないけど。 なんといっても史強、シーチアンだよね。 知の陥穽を平然と突き破るヴァンダリズム。そしてそれはこの作品のテーマでもある。結論でもある。 冒頭で短く語られるだけにしては妙に引っかかりを、心に影を落とす白沐霖、パイムーリンの挿話だがそれも当然で、この「良心的知識人ではあるが結局肝心なところで頼りにならない弱い人間」は作品のテーマそのものだったと後でわかる。物語はフラクタル構造であり(作中バッハの名はわざと語られている)、小さな挿話は全体の構成と同型である。そして勿論白沐霖をそのまま裏返したところに出現するのが史強そのひとなのである。 同型と等方性原理。作品の構成において、作者の思考において、その二つは明確に意識されているように思う。 ここにあるならそれは向こうにもある。ここにないならそれは向こうにもない。 地上が汚穢に満ちているなら天界もまた汚穢と無縁であるはずがない。 斉花屯に親切な人々がいたのなら、4光年先の観測衛星に監視員1379号が必ずいる。「返信するな!」と衷心から叫んでくれる、思いやり深い心のやさしいひとが。 知識階級の人間なら、ワンミャオが遭遇したような事件に巻き込まれ、未知なるものと遭遇した場合、表面的には冷静さを装ったとしても、実際にはどうしようもない恐怖に襲われるだろう。それに対して、史強の場合、もしそういうものに直面したとしても、怖がりさえしない。それこそが力だ。無知な者は恐れを知らないということではけっしてない。 ……俗世間に溶け込んで生活する史強のような庶民の精神を、未知への恐怖が押しつぶそうとしても、ワンミャオやヤンドンの場合と同じようにはうまくいかない。彼ら庶民は、未知なるものに対抗するたくましい生命力を有している。その力は、知識ではけっして得られない。 全433頁ある物語のまだ序盤95頁で、実はもう作品のテーマも帰結も、全てが語られてしまっている。これ、三体皇帝の傲慢と同型なんだよね。作者の執筆態度が。「早々に全部種明かししてしまっても、我が書物の面白さは最終頁まで一片も損なわれることはない!」
WS。特集、1969。 シカゴトランジットオーソリティー、Questions 67 And 68。 フリー、身近。 Talking at me. 噂になってるわけじゃない。 トニージョーホワイト、自分の生活を。
WS、特集 ウッドストック。 SKOS、港町の音楽。 八月十五十六十七十八。50周年キャンセル。三十八枚組、限定1969セット即完売。十枚組。 ボブディランが住んでる所、ウッドストック。スタジオ。べセル。 He shall be released. フリーフェス化。無名のサンタナ。 雨、感電。人種混成楽団スライ& The ファミリーストーン。 十万ドル。 四十万人。 アルバートグロスマンvsアトランティック。 世界三大なんちゃら。三大珍味。フォアグラ、トリュフ、キャビア。三大B。 三大珈琲、キリマンジャロ、ブルーマウンテン、コナ。三大珍品。ジャコウネコ、猿、たぬき。 マンション動いてはる。豪華客船。 駅前公設市場。洋食更科。 絶滅、フルーツ牛乳。 商人の港コペンハーゲン。 秋田県土砂災害警戒情報解除。 映画カーマインストリートギター、200年廃材。
「夜は短し歩けよ乙女」をいま頃観た。 アニメーター湯浅政明氏の才能はクレヨンしんちゃんで知っていたから期待度数が高く、それでまあ、その。 これは既視感があんのよ。何年か前深夜にやってた四畳半なんたら、これも絵柄から湯浅氏の仕事であることは明らかで期待を持って観始めたんだけど、15秒位でもうやんなってね。テレビ消しちゃった。大正ロマンっつうんですか(なんかこの時期流行ったよね)、文語調の饒舌な独白が空間恐怖症のように際限なく隙間を埋める鬱陶しさ。 この映画も観始めたらまったくおんなじで、おんなじなのも当然で原作があんのね。原作者が同じなのね。なんたらミトシとかいう。 ミトシじゃねえや。トミヒコだ。 だからそのひとのせいなわけだけど、二度も同じひとの原作で作品撮ってんだから当然湯浅氏もこういうのを嫌いじゃないわけだ。好きなわけだ。なんか意外。いささか、もといかなりがっかり。 ひとことで言えばペダンティシズム、衒学、学をてらうみすぼらしさ、ってことになんだけど。 面白いですか? 詭弁踊り。クスリとでも笑えましたか? 俺にはひとつも面白くない。 湯浅さん、この仕事楽しいのかなあ。まあ楽しいんだろうなあ。 久しぶりに神保町行ったらなんか和装やら大正モダニズムやらの扮装で古書を探す自分にうっとりしてる若者たちがいて。そういうのに媚びた読書カフェなんかもできてて。あのうんざりする感じ。 ヒロインには名前がない。黒髪の乙女、という役名。まあそうだよね。先輩君に都合のいいイデアなんだから。生身の人間である必要がない。何を考えてるのかさっぱりわからない、血肉の通わない木偶人形のような女。言われるままに万引の片棒を担ぎ演劇で濡れ場を演じ。そんな、中身のスカスカな女。 先輩君とパンツ番長、同一人物だよね(そして当然作者の分身)。目と目が合ったら結婚、妊娠の世界。恋する男、恋に憧れる男の気持ち悪さ。パンツを長期間穿き替えない、そんなハードルを設けてもなお僕を愛してくれる無償の愛(≒母の愛)募集中。 フェミニズムなんかまさにこの作品をこそある種の典型として批判すべきなのにと俺は思ったけれど、俺が憂慮するまでもなくその文脈の批判はペンギンハイウェイで澎湃と沸き起こっているらしい。やはりなんたらトミヒコ原作なのである。 湯浅氏のしゃれおつなグラフィック感覚