「夜は短し歩けよ乙女」をいま頃観た。
アニメーター湯浅政明氏の才能はクレヨンしんちゃんで知っていたから期待度数が高く、それでまあ、その。
これは既視感があんのよ。何年か前深夜にやってた四畳半なんたら、これも絵柄から湯浅氏の仕事であることは明らかで期待を持って観始めたんだけど、15秒位でもうやんなってね。テレビ消しちゃった。大正ロマンっつうんですか(なんかこの時期流行ったよね)、文語調の饒舌な独白が空間恐怖症のように際限なく隙間を埋める鬱陶しさ。
この映画も観始めたらまったくおんなじで、おんなじなのも当然で原作があんのね。原作者が同じなのね。なんたらミトシとかいう。
ミトシじゃねえや。トミヒコだ。
だからそのひとのせいなわけだけど、二度も同じひとの原作で作品撮ってんだから当然湯浅氏もこういうのを嫌いじゃないわけだ。好きなわけだ。なんか意外。いささか、もといかなりがっかり。
ひとことで言えばペダンティシズム、衒学、学をてらうみすぼらしさ、ってことになんだけど。
面白いですか? 詭弁踊り。クスリとでも笑えましたか?
俺にはひとつも面白くない。
湯浅さん、この仕事楽しいのかなあ。まあ楽しいんだろうなあ。
久しぶりに神保町行ったらなんか和装やら大正モダニズムやらの扮装で古書を探す自分にうっとりしてる若者たちがいて。そういうのに媚びた読書カフェなんかもできてて。あのうんざりする感じ。
ヒロインには名前がない。黒髪の乙女、という役名。まあそうだよね。先輩君に都合のいいイデアなんだから。生身の人間である必要がない。何を考えてるのかさっぱりわからない、血肉の通わない木偶人形のような女。言われるままに万引の片棒を担ぎ演劇で濡れ場を演じ。そんな、中身のスカスカな女。
先輩君とパンツ番長、同一人物だよね(そして当然作者の分身)。目と目が合ったら結婚、妊娠の世界。恋する男、恋に憧れる男の気持ち悪さ。パンツを長期間穿き替えない、そんなハードルを設けてもなお僕を愛してくれる無償の愛(≒母の愛)募集中。
フェミニズムなんかまさにこの作品をこそある種の典型として批判すべきなのにと俺は思ったけれど、俺が憂慮するまでもなくその文脈の批判はペンギンハイウェイで澎湃と沸き起こっているらしい。やはりなんたらトミヒコ原作なのである。
湯浅氏のしゃれおつなグラフィック感覚に幻惑されて見えなかっただけで、普通のアニメ絵でやればそりゃ途端に可視化されちゃうよねえ。ド直球にキモヲタな世界観、女性観が。
万引小僧がなんか自己正当化の小理屈並べてたけど、その「世界にあるのは唯一つの本である(唯本論)」からすると、「解放」後彼らが稀覯本を廉価に入手して喜ぶのはおかしいんだよね。その理論はおそらく中身のテクストこそが重要であるという価値観も当然に包含するはずだから、真の愛書家であれば初版だなんだにこだわるのはおかしい。いや、もっと言えばすべての本は一冊の本なのだからブコフで百円のベストセラー本でも買って死ぬまでそれだけ読んでればいい。
つまり唯本論は明らかに間違ってんだよ。本にはその価値に軽重の差があり、市場に価格として反映されるのは当たり前。
たまたまいま読んでいた『獄門島』で、こんな言葉に行き当たった。
似非風流心。
苦々しいばかりでちっともおもしろうない。
風流ではなくて、江戸末期の通人趣味。
この作品及びなんとかトミヒコさんを評するにあまりに的確な言葉がそこに並んでいて俺は驚いたのであった。
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