一巻からまた読み返している。鏡面。国連。景色の中で映える美女。水墨画。黒暗森林で語られるモチーフが第一部から既に出現している。 第二部最後の逆転劇、大ネタも、ワンミャオを苦しめた「宇宙の息遣い」の変奏なんだよね。羅輯がまったくおんなじやり方で智子の憾みを晴らしている。 発想の使いまわしではあるが、逆に、おんなじアイディアからまったく別の話を紡げる劉慈欣の異才、その証明でもある。 きのう町山さんの本多猪四郎解説をたまたま見てたんだけど、そしたらそこで語られる本多猪四郎イズムに驚いた。俗世間から疎まれた科学者が世界に、人類に絶望し、巨大生物や地球外生命体(人類の敵)にむしろ通謀するようになる。 それ、「三体」そのものじゃないか。 第二部で面壁者のセリフを借りて語られる「俗な映画への愛」だが、劉慈欣の精神形成、戯作者魂が怪獣映画からも培われているのは驚きでありまたさもありなんでもある(「続夕陽のガンマン」の影響すら見てとれる!)。 「兵馬俑コンピュータ」は面白い場面だけど、これ、この一時期の試みにとどまらず三体文明の特質なんだよね。三体問題を解く必要に迫られた文明が最も必要とするものは高性能計算機。一貫してCPUの開発ということに文明が特化し、ついにその到達点がソフォン、智子となる(その過程で目的だったはずの三体問題解決は断念、放棄されているのも面白い)。