アマプラで観た。とてもよかった(原作は未読)。 自然、農村風景、握り合った手が「不穏」しか予感させない。その張り詰めた、切れるほど美しい美術に圧倒された。 マルチバース物としてはこれに先立って観たエブエブよりずっといい。 藤野が人生で初めて反省、悔悟した瞬間時空に歪みが生じ京本の四コマがスリットから藤野に届く。それは藤野が京本を救う世界線の実在を約束する四コマだ。 その幸福な世界線と悲劇の起きた世界線はけして交わらない。明るい未来に踏み出していた京本はけして生きて還らない。しかし、そうでない世界がある。交わらずともある。なぜあるか? 藤野が心からの反省をしたから。悪意に満ちた軽薄な紙片を嫌悪とともに破り捨てたから。調子乗りのエゴイスト、なんの役にも立たない自分を心底嫌悪したから。その後悔が、別の世界線を生んだ。 そんなの意味ないじゃん? ある。このルックバックという作品が実際そのように機能しているからだ。大丈夫、自信を持て。その才能を伸ばせ。君にはできる。こうしたい、こうなりたいという方向に一歩を踏み出す勇気を持て。君の未来は明るい。そのメッセージを受け取った読者は、そうでなかった人生と別の世界線を確実に歩み始めるのだ。 このエールを伝うるに現代思想の豊富な参照、援用など必要ない。ただそこに藤本の素朴な誠実だけがあればいい。倫理と物理が交わる瞬間を藤本はシンプルに描いている。これは正義の物語なのだ。
アマプラの見放題に降りてきたので観た。 ……。うーん。 開始二十分位でやりたいことは概ねわかるのだがくどいというか話が進まないというか。それはもうわかったからさあ、いう。 マトリックス大好き(旧式コンピュータのレジスタンス、この世の仕組み、真の自分、クッキー、カンフー)なのはまあいいとして、しかしこのグダグダな叙述はどうよ。 マリエンバートとゴダール「ってなんか難しそうでこれの真似するとカシコに思われるから真似よ」と思って作った凡百の学生映画を観てる感じ。石とかもう幼稚で最悪。「世界の中心はベーグルだ!」とか中学生がノートに書くSFやんけ。それでいてカンフー、マトリックスもやろうとしているから主人公が力に目覚め(結構早くに)て戦うのだけれどそれがクライマックスに至らずまた「あのときこうしていれば」の後悔を見せられる。5分毎に見せ場を濫発して飽きられる文法はアルマゲドンと一緒。 そしてなんというか汚い。うんこ座り、エイナルファック。中華人民は汚くて下品です、というアピールになにか積極的な意味があるのだろうか? 「すごく変なことをするとジャンプできる」いうのもSF設定としてどうなの? 「すごく変」をジャッジする物理法則ってなに? ストレートに「家系」映画なのだが、娘さんはガールフレンドを伴って初手から家を訪れているのでひとつも音信不通、疎遠じゃない。母ちゃんは「あのときなぜわたしを止めてくれなかったの?」と終劇近くで父親に甘ったれたことをぬかす。母ちゃんは体験を通じてひとつも成長していない。 ルッソ兄弟の関与が信じられない出来栄えである。