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10月, 2022の投稿を表示しています
 

「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」2021.

  かなり良い。これは予想を裏切られた。 正直気が進まないまま観始めたのだ。いわゆるファースト原理主義者(になるつもりは別になかったのだが)だから。ともかくゼータ以降が幼稚でことごとく技術的映像的にも退歩退化してるようにしか見えなくて。だからこれもそういう一群の、いかにもオタク臭いものかと思ってたら。 ファースト(及びコミックのオリジン)以外で感心するガンダムに出会ったのはこれが初めてじゃないか。 非常にスタイリッシュ。キャラデザ、作画もいい。コックピットのモニタ視野が素晴らしい。 人間が地上にいる至近でのモビルスーツ戦のリアリズム。降ってくる溶けた金属。 ラストの一騎打ちなども演出にある種の思い切りがある。すなわち、戦闘をわかりやすく見せることの放棄。勝負は一瞬に、わけわかんない状態で決する。ならばそのわかりにくさ、わからなさをゴロリとそのまま皿に載せて提供すればよいのではないか。というコペルニクス的発想。 いや、観始めたときは暗澹たる思いにとらわれたのだ。いきなりいちばん大嫌いなアニメ的クソ女が出てきたから。おとな舐めくさって組んだ脚でセックスちらつかせるタイプ。またこういうのかよ! と思ったら、これに処するハサウェイがよかった(百パーよくはなかったが百パーいいと映画は20分で終わる)。「きゃー!」「ご、ごめん!」赤面する主人公、という5兆回は繰り返されたようなクリシェをひとつずつ丹念につぶしていく。「あー、もうそういうのいいから。業界でラッキースケベって言うんですか? 育ちの悪い下品な女だ。俺ァメンヘラの馬鹿女にはさんざひでえ目に遭ってんだ、もう懲り懲りなんだよ!」。とてもよい。そのあと助けたりしなければもっとよかったけどそうするとやはり映画がすぐに終わる。ここで負い目をつくったから、仲間を捕られるはめになったから、大将自ら大将機で取り返す展開になっていく。 そうして帰投したパルチザン(マフティー)基地の雰囲気。これが素晴らしく気持ちいい。活気に溢れ士気が高い。マフティーがいかなるものか説明的なセリフはほぼないが、政治教義など語らずとも彼らの気持ちの良さ、佇(たたず)まいが雄弁に語っている。けして狂信者の群れではないと。 これに先立つなんとか君との戦闘もまたそうだ。名前は忘れたが要するにこれは最新鋭機ガンダムを操る連邦の天才少年アムロレイに他ならない。その
 
 

「ゴッドファーザーPARTⅡ」The Godfather Part II, 1974.

 午後ローの録画180830【前編】と180831【後編】をいま頃観た。日付からすると夏休み最後の日の昼下がりゴッドファーザーを観た小学生中学生がたくさんいることになる。彼ら彼女らはいったい何を感じたのだろうか。 手元にある午後ローの録画がパート2と3しかなくてこうして2から観始めた。最初のを観てない。2を観終わった感じで言うとたぶん最初のは老人ヴィトーコルレオーネ=ゴッドファーザーをマーロンブランドが演じる(それくらいの情報はかろうじて知ってる)のだろう。ゴッドファーザーの、縄張りを守るためなら血で血を洗う仁義なき戦いが描かれ、王子マイケルがその父に反発しながらも、修羅の帝王学を王から学んでいく。そういう物語とみた。 2では、お世継ぎの帝国防衛戦が描かれている。敵であるユダヤ系ギャングハイマンロスとも賢く手打ちをしなければならない時もある。そしてその深謀遠慮を邪魔する身内に手を焼いたりもする。 前編のラスト、裏切り者は兄だとわかるシーンのその経緯がちょっとよくわからなかった。かといってまたそれを確認するために1時間半見直す気力はさすがにない。 故郷を逐われ自由の国にたどりついたヴィトーの挿話が交互に挟まれる。チーズ屋で真面目に働くヴィトーを失職に追い込んだのは地廻りのヤクザ。職を追われたヴィトーは悪い奴に泥棒の片棒を担がされそのままその道に。みんな同郷人。貧しいイタリア移民同士が互いを食い合う屠り合うやりきれない世界。 黙示録で懲りてたのでコッポラの三時間超大作などまったく見る気にならなかったのだが、案に相違してこれはきわめてわかりやすかった。 途中いきなり政府の審問会が始まるのが面白い。映画の中に急にドキュメンタリーが挟まれたような感じ。現実のアメリカがぬっと顔をあらわす。 ラスト、ケーキを前にしての兄弟の諍(いさか)い。大学生のマイクが帝国を継ぐ意思などさらさらない、コルレオーネファミリーの一員であるよりは応召する公共性をもったアメリカ市民であることがわかる。 ウィキペディア を見るとマリオプーゾ(聞いたことある)の小説、その映画化らしい。しかしパート2はほとんどオリジナルだという。他にもマーロンブランドのわがままエピソードなど楽しいことがたくさん書いてある。コッポラが二作目制作にまるで乗り気じゃなかったというのも面白い。
 

「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」2022.

  んー。 誤魔化すのはやめよう。端的に面白くなかった。 ともかく展開が、所作がのろい(1時間48分が長過ぎ、ということでもある。この内容なら一時間でタイトに作ったほうが作品が締まったのではないか?)。予算をきちんと取れたことが、潤沢に枚数を描けるということが仇になることもあるのか? そんな感想を持った。動かし過ぎなのだ。割とどうでもいいシーンでまで。 つくづく奇跡のテレビシリーズだったのだとあらためて思う。スタッフの一致した思いはただひとつ、「メシの食える仕事をする。ヤマトにあやかる。もう貧乏は懲りごりだ」。芸術肌のひとから見れば志は極めて低かったと言えるだろう。 しかしその志の低さから、制約からしか生まれないものがある。 限られた予算。が意味するものはアニメーションの場合すなわち作画枚数をいかに低く抑えるか。だからなるべく止め絵で、アクションもバンクを使いまわして、ここぞという場面にだけ力を入れる。 完成したフィルムは「無駄な動きをしないがここ一番では安彦良和の流れるような全作画が見れる」躍動感溢れるものとなった。緩急がつくのだ。バンクも歌舞伎で言うところの見栄、「いよ、待ってました!」として機能した(カタパルト発進とか)。 しかし本作ククルス・ドアンにおいては……既に述べた通りだ。 子どもたちの描写がしつこく最後まで続くのも気になった(安彦さんが自分のやりたいことを映像化しているのはわかる。クムクムをやりたくて、そして実際やったひとなのだ)。ギャラリーになる必要はあっただろうか? ないのである。 本作についてはある期待があった。つまり最近の安彦氏の著作(漫画及び対談集、回想録)からうかがえる思想的な変遷、深化、そういうものが反映されるのではないか? ザクを海に投げ飛ばしてさあもうこれで安全ですよ島は平和ですよという結論のままでいいのか? いや、それはよくない、無責任に過ぎる! と安彦氏が思ったからこそあえてのククルス・ドアン。オリジナルとは真逆の改変を行うのではないか? そんな予感があったのである。 蓋を開けてみればまったくおなじで……あれっ? というのが正直なところ。 弾道弾をガンダムが追っかけて破壊する展開にならなかったのもせっかく準備されたコアブースターの持ち腐れな感じがして残念だったなあ。クライマックスにそういうケレンが欲しかった(マクベもいたのだ