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「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」2022.

 

んー。

誤魔化すのはやめよう。端的に面白くなかった。

ともかく展開が、所作がのろい(1時間48分が長過ぎ、ということでもある。この内容なら一時間でタイトに作ったほうが作品が締まったのではないか?)。予算をきちんと取れたことが、潤沢に枚数を描けるということが仇になることもあるのか? そんな感想を持った。動かし過ぎなのだ。割とどうでもいいシーンでまで。

つくづく奇跡のテレビシリーズだったのだとあらためて思う。スタッフの一致した思いはただひとつ、「メシの食える仕事をする。ヤマトにあやかる。もう貧乏は懲りごりだ」。芸術肌のひとから見れば志は極めて低かったと言えるだろう。

しかしその志の低さから、制約からしか生まれないものがある。

限られた予算。が意味するものはアニメーションの場合すなわち作画枚数をいかに低く抑えるか。だからなるべく止め絵で、アクションもバンクを使いまわして、ここぞという場面にだけ力を入れる。

完成したフィルムは「無駄な動きをしないがここ一番では安彦良和の流れるような全作画が見れる」躍動感溢れるものとなった。緩急がつくのだ。バンクも歌舞伎で言うところの見栄、「いよ、待ってました!」として機能した(カタパルト発進とか)。

しかし本作ククルス・ドアンにおいては……既に述べた通りだ。

子どもたちの描写がしつこく最後まで続くのも気になった(安彦さんが自分のやりたいことを映像化しているのはわかる。クムクムをやりたくて、そして実際やったひとなのだ)。ギャラリーになる必要はあっただろうか? ないのである。

本作についてはある期待があった。つまり最近の安彦氏の著作(漫画及び対談集、回想録)からうかがえる思想的な変遷、深化、そういうものが反映されるのではないか? ザクを海に投げ飛ばしてさあもうこれで安全ですよ島は平和ですよという結論のままでいいのか? いや、それはよくない、無責任に過ぎる! と安彦氏が思ったからこそあえてのククルス・ドアン。オリジナルとは真逆の改変を行うのではないか? そんな予感があったのである。

蓋を開けてみればまったくおなじで……あれっ? というのが正直なところ。

弾道弾をガンダムが追っかけて破壊する展開にならなかったのもせっかく準備されたコアブースターの持ち腐れな感じがして残念だったなあ。クライマックスにそういうケレンが欲しかった(マクベもいたのだし)。

よいところもあるので記しておこう。厳しい自然の中生きていく孤児とドアンの姿は安彦氏の自叙伝だ。これは遠軽(おんがる)の開拓農民の姿だ。「いつも苦労をかけて済まない。戦争が終わったら、暮らし向きも多少は楽になるだろう。もう少しだけ我慢してくれ」。ドアンがカーラにかける言葉は完全に夫婦の会話、安彦氏の父母の姿だろう。

安彦さんはどの作品においても自分を描いている。必ず自叙伝なのだ。学生運動を煽動した廉(かど)で放校処分を受け地球に下り飯場の土方で食いつなぐシャアアズナブルは紛れもなく安彦氏自身の若き日の姿、挫折の日々そのものだ。

鍬を持たされたアムロが冷やかされてるそばからたちまち作業に習熟するシークエンスもよい(ドアンはすぐに非凡を見抜く)。ニュータイプ表現は額のキリキリ、戦闘シーン以外の日常でも表現できるのだ。

フラウボウがまあとにかくエッチなカラダでびっくりした。この着衣(制服)のエロティシズムはまさに余人をもって代えがたい。安彦氏の真骨頂だ。少なくとも本作においていちばんいい女だったのはだんとつにフラウボウだ。

セイラさんの声もいいね。俺はこのひとの方が好きだな。

足でつぶすところは意外でよかった。「えっ」ってみんな思ったでしょう。こういう、部分部分でいい表現はあるから全体の完成度が余計に惜しまれるのだ。

え? 白兵殺すの残酷なんですか? モビルスーツ戦ならいいの? 僕はもう何人も殺してますよ。とダーティーワークを強いられてきた兵士アムロレイに俺たちはあの場面で詰問されているのだ。

高機動ザクもよかったね。それが四機も出てきたのだから、「迫撃! クアッドザク」は是非やって欲しかった。ドアンとアムロの二機、その連携でサザンクロス隊の猛攻を撥ね退けるのである。ジェットストリームアタックを2022年安彦良和はこう描く! そのケレンを見たかった。……完成作品の一騎打ちはあまりに淡白に過ぎなかったか?

因縁ありげの彼女、との殺し合いももうちょっとなんかあってもよかったのではないか? こどもシークエンスを減らすだけの価値はあったと思うのだが。

テレビシリーズの音楽が意識的にフィーチャーされているのもとてもよかった。これですよ。劇場版三部作を観たときに俺たちが多少残念であったのは。映画的劇伴ではなく、ガンダムに必要なのはあの「毎回ここでかかるあの旋律」なんですから。

このフォーマットが今回打ち出されたことの意味は大きい。そう、音楽を含めて、この形式でリヴェンジマッチをぜひして欲しいんですよ俺としては。

どう考えても本作は芳しい評判は取れないでしょう。でもこの、テレビシリーズのリメイクというフォーマットで、本作を叩き台に更なるブラッシュアップをはかればいいものは絶対できるんですよ。

安彦さんも関係各位も、とりあえず技術的作画的には百点満点の仕事をしている(安彦さんの現在の絵で一年戦争の面々がアニメーションで動きまくってる。それはファンにとってものすごいことなのだ)のだから、次回は脚本時点で批判的検討を十分にした上で再チャレンジして欲しい。

ククルスドアンの次は……やはりこれも傍流の一匹狼、木星帰りの男シャリアブルということになろうか。打ち切り決定で本来の予定がはしょられた男でもある。その本来描きたかったところ、のプロット構築に富やんが参加、というのもアリじゃないか? なしか? 下手にそういうの組むと結局血の雨が降るか? とか部外者ながら色々期待したり心配したりする。

アマプラリンク

ククルス・ドアンの島公式サイト


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