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デューン 砂の惑星〔新訳版〕 上、中、下 (ハヤカワ文庫SF) Kindle版

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読んだぞーいま頃読んだぞー。

「なんだよ、ナウシカのパクリじゃん。スターウォーズも、ボトムズもパクってやがる」。違う、逆だって。

そのことをいま頃知りました。でも死ぬ前に知れてよかった。三部作、読んでよかった。

読み応えのある冒険譚だ。なるほど、映画化が繰り返されまた広範な影響を後代の作品に及ぼすその理由もよくわかった。

俺はなんたらブニュニュウブ(そんなような名前)の一作目は既に観たのでそのことがノイズになって途中まで読書の楽しみを若干削がれてしまった。帰趨を知っているからだ。なんと中巻の途中(殺し合い)まで!

しかしこれはやはり本を読まんと始まらんなと読んで思った。情報量が圧倒的に違う。映画じゃこの世界が殆ど伝わらない。

母ちゃん

序盤、公爵着任祝賀晩餐会の母ちゃんの心理戦に結構俺はイライラしたわけ。なんか一生懸命、すべてを観察し「登録」し息子の振る舞いにダメ出しし「わたしは完璧なのでなにものをも見過ごさない」と延々万能感。「なんかこの母ちゃんおかしいで? 一番大事なものの防衛には見事失敗してるし。なんも考えんとふつーにめし食ったんと結果変わらんやん。無駄に長いし。ハーバートって小説下手くそなんじゃない?」と思ったらこれはちゃんと意図しての描写だったとあとでわかる。それ式のミスリード、引っ掛けが多々あるのだ。小説巧者である。

まあしかし母ちゃんかわいそうやね。「そう、わたしは最強の諜報員」みたいな自負で澄まして生きてきたわけだけど結局「駒」でしかない。学院が計画的に産ませ育て嫁がせた駒。だからあの、読者から彼女に最も侮蔑が注がれるだろうあの場面はもう逆に「わかる」よ、俺は。

旦那が同僚の奸計に遭い破産失職し社屋屋上から飛び降りパリの高級住宅街を逐われ移民だらけのスラムに落ち延びた母子。そこでしかしまあ賢い息子と彼女自身の才覚(威張ることで威厳を示す、相手を圧服するという植民地白人女主人テクニック)でスラムの頭目にのし上がり麻薬売買で原蓄し。「ああもう大丈夫これでやっとこの臭くて汚いバカしかいないスラムとおさらばできる。あの屋敷に戻れるんだわ。さて、あの子にはかわいそうだけど息子の正妻はちゃんとしたとこのお嬢さんじゃないと。さてどう消えてもらおうかしら」

ひどさ満点だけど、これまさに彼女のコンプレックス(いいとこじゃない、正妻じゃない)だし。母の顔も知らず学院に暗殺ロボット、子産みロボット(母親と同じ)として育成され。あげく最愛のひとを失いスラムに叩っ込まれ。境遇的には我らがブラックウィドウに結構近い。そんな彼女が俗で月並みの幸せ、安逸を願ったとして誰にそれが責められようか。

俺がそう思っただけでなく、実際作者ハーバートにとってもここは結構なクライマックスだったのではないか。

すべての小説(ノンフィクションをすら含めて)は私小説である、と言ったのは誰だったか。このDuneも、まったき異世界に見えて実のところハーバートの私小説を感じる場面が多々ある。母と子の逃亡劇、そのさなか双方の胸に去来生起する相手への感情はまぎれもなく普遍的母子の愛憎(やや毒親風味強し)だ。

ポール

ポールが叫ぶ。「僕になにをした!」。教育ママに叛旗を翻した瞬間の息子の叫びである。

ポールは惑星アラキスの力(薬物)も合わさってクウィサッツハデラック(同時に二箇所に存在する者)に進化する。ここで俺が衝撃を受けたのはこれだ。時制。言語。予知。

つまり未来過去完了とは、その話法を用いてそれを発声した者、発声せずとも思考した者は、例外なく予知能力者なのである。予知をなしたのである。これは論理的にそうならざるを得ない、というハーバートの優れた演繹である。

つまり未来予知とは誰しもに備わっている能力である。クヴィサッツハデラックに違いがあるとすればそれは桁違いの未来過去完了を脳内に記述できる者ということになる。

であるから、彼ポールが予知を身に着けたときそれがまったく意味のない能力であることを作者は活写している。無限の未来(マルチバース)を想起できる能力は、クソの役にも立たない。ただの可能性だから。まして自分の行動がそれを揺らすことを知っていれば。

未来予知、と、一寸先は闇、は、完全に等価なのだ。

ナウシカ

防塵マスク。砂漠の民。救世主伝説。節足巨大生物。悪臭。汚穢。人類補完計画。封建社会。ナウシカを観た(映画)とき読んだ(原作漫画)とき「こんな異世界を一から構想できる宮崎駿というひとはなんと凄いひとなのだろう」と感嘆したが、けっこうパクリである。ていうか、ほぼ置き換え、と言っても過言ではないだろう。もちろんそう言ったところで宮崎の凄さは減らないが。置き換えたといってもそこに新しい要素(文明の崩壊、エコロジー、巨神兵)は加わっているし、なによりさすが宮崎駿、「プログラムされた救済」なるものに対する敵愾心は完全にDuneを超えている。ポールの「手打ち」は普通のドラマトゥルギーから言えば目の覚める展開なのだが、ナウシカはそこを更に超えた。いらんがなと。滅びたるわいと。

富野喜幸

富やんはなぜ近代以前に対する憧憬が深いのだろう? ということがかねてから気になっていた。キューブリックの影響? ももちろんあるのだろうが、さて。と思っていたら、このDuneを読んでとっかかりができた。富やんはこれがやりたかったんじゃないだろうか。ただし、ハーバートは近代民主主義社会の価値を再確認するその言わば当て馬として封建社会なり砂の民の土民社会へといったん我々読者を引きずり下ろすわけだが、富やんはなんというかそのハーバートの意匠の部分に引きずられて近代に戻れなくなってるんじゃないか。ポールも父親レトも共に啓蒙専制君主なのだが。

高橋良輔

つまり春秋の筆法をもってすれば、装甲騎兵ボトムズとは高橋良輔版風の谷のナウシカである、とも言えるのではないか? これはつたない妄想だろうか。だが、「あ、この場面」「あ、これ」と、案外漫画版ナウシカやらラピュタやら、宮さんボトムズも意外にチェックしてんじゃ? と疑いを複数回持つことがあった。どちらもDuneの影響下にある、というにとどまらず。

スターウォーズ

惑星タトウィーン。砂漠の蛮族。宿敵の意外な正体。修行と異能力、弱い心を操作する力。多くの想はここから採られていることは明らかだろう。そしてもちろん「あ、Duneじゃん」「なんだよ、パクリありかよー。それで大ヒットかよー。じゃあ俺も」と世界中のクリエイターに二匹目三匹目を追わせる起爆剤となったはずである。

疑問

小産砂は9メートル以上にはならない、という記述があったと思ったが、じゃあ巨大な個体はなにをどうやってああなったのか?


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