いまから「星を追う子ども」という作品の悪口を言います。星を追う子どもという作品で涙を流した方、新海誠ファンの方は読まないほうがいいと思います。以上、配慮でした。
いやあ、ひどいね。ひどすぎるね。なんだろうこれ。
何を考えているんだろう。
もうね、10分が限界だよ。観るの。通して観るの。だからちびちびちびちび観たよ。何ヶ月もかかって。そんないやなら観なきゃいいじゃんだけど観たよ。
おそろしく長い悪口になると思うので最初にサマリーだけ、見出しだけ列挙しておく。
宮崎駿オマージュ、キャラクターデザイン、頭でっかち、5秒ごとに「はっ!」。マイケルベイ方式。音楽盛り上げ。長い。無駄に長い。新興宗教? 金どっから出てるのよ。新任の先生は特務機関員、と思ったら実はアガルタ研究者で元軍人で奥さんを蘇らせようとしているのだった! 厨二女子の妄想。
オマージュという言葉を最初に知り、かつそういう言葉で修飾することに何の意味があるのか? と初手から疑問を抱くきっかけになったのはデパルマのアンタッチャブルだった。既にポチョムキンを複数回見ていた俺にとって、デパルマが乳母車を階段に転がすことが引用行為であることは理解したが、なぜそれがこの映画のあの場面において引用されなければならないか、また、なぜそれが「オマージュ」と特別に横文字で呼称され、「な、これ、エイゼンシュテインへのオマージュなんだぜ。すごいだろう」と、それこそ敬意を強要されなければならないのかがさっぱりわからなかったのだった。それはいまでもわからない。
その愚行を更に低レベルでこれでもかこれでもかとリプレイしてくれたのが本作「星を追う子ども」である。
しかしどうなんだろう。宮崎駿、試写会招待あったんだろうか。これはさすがに本人も、惣流アスカラングレー同様「ぎぼぢわるい」とうめくしかなかったのではないだろうか。
もう最初から、5分と見続けることが苦痛になってしまったのだが、その原因は複数あって、まずはキャラクター造形、キャラクターデザインにある。
主人公の女の子、全然萌えない。頭でっかち、間抜けの小足で、なんだか体型のバランスが変なのだ。サザエさんみたい。それでいて顔だけはナウシカ、さつき、キキ。
パンチラを期待させるサービスカットが豊富だが、「こいつの見えても別に……」な気分が先に立つ。
エプロン姿に至っては安っすい風俗コスプレ、東南アジアの少女買春、そんな匂いを感じてもう発情興奮どころじゃない。痛々しさが先に立つ。
見てらんない理由の第2は5秒ごとに訪れる新展開。「はっ!」「ハッ!」と登場人物たちは何事かに気づく。驚く。驚いてるのはキャストばかりで観ている俺たちはまるでついていけない。5秒ごとに、5分ごとに驚く人間のことをわたしたちは一般に「うっとおしい」と言う。
そしてまたその「驚きの展開」ってやつがさあ。なんだかもう。新任の先生、授業中に突如「謎の超古代文明」について語り始め(たぶん文部省指導要領違反)、その日のうちに中学生の主人公住所職員室で聞き出し独身成人男子の住まいを訪問。先生も先生だ、西日射すアパートに教え子を招き入れイカれた与太話の続きを開陳する。そしてその先生、先生というのは仮の姿、実は政府特殊部隊、秘密組織の一員で元傭兵でんで更に特殊部隊というのも実は世を忍ぶ仮の姿、組織に身を寄せていたのも実は組織を利用してアガルタに潜入し亡き妻を蘇らせるのがその真の目的であったのだ!
……死ねばいいよね(←悪意を込めた悪口にあらず)。ふつー。ふつーまず、そ-考えるよね。死んだひとに会いたい時は、さ。アガルタがどうの入れあげる前に。この男、死ぬのはすっげーヤなのかな。元傭兵なのに(なぜか欧州戦線)。
アガルタの描写が宮崎ハヤオオマージュを通り越して物凄くニューエイジなんだよね。エコでオカルトでスピリチュアル。あの飛行物体とかね。すごく気味が悪い、気持ち悪い。この映画やけに長いしスタッフも大勢だから、金かかってんだろうから、「どっから金出たの?」とまず考えてしまうのはそういうはしたないこと。まあ特定の宗派を意識させるものはなかったからどっかの宣伝ではないのだろうけど。しかしこのフィルムのせいで新海誠にそういう発注が今後来る可能性は高いと思う。
組織に利用されるふりをしつつ利用して亡き妻を蘇らせる妄執のひとってのはあれか。碇ゲンドウオマージュか。でもこのひとかわいそうなんだよね。最後の最後、「先生にはわたしたちがついてなきゃ!」っつって来なくていいのにしゃしゃり出てきたクソガキどもに大願成就邪魔されて目も潰されて。遠路はるばる何しに来たの? という徒労感。邪魔立てしといて人生哲学だか説教だかまで垂れやがる青二才。怒り狂って八つ裂きにしていいはずなのになんかおとなしいままの傭兵先生。もうなにがなんだかさっぱりわからないよ。
あなたのハートにはなにが残りましたか? 俺のハートにはなんにも残らなかったよ。この無駄に冗長で退屈な頭のおかしいフィルムへの怒り以外には!
音楽もおっきいよね。さあ、ここ、クライマックスですよ! 泣いてください! と5分ごとに盛り上がる音楽。マイケルベイ方式。だから異常に退屈だったんだな。アルマゲドンとおんなじ。……てことは。これ、意外に興収良かったのかも。バカども喜んだのかも(感動しました! という感想を実際ネットで見つけて唖然)。
二、三日一緒に過ごしただけの行きずりの女の子と別れるの、あの大げさっぷりどう見てもおかしいよねえ。すごい変。
いいとこまるで皆無、とまでは言わない。少女は自分の真意を告白している。「わたし、寂しかったんだ」。夢見がちな空想少女の本音はつまるところそこに帰着する。だから新任先生が実は特殊部隊精鋭でわたしを別世界へ……っていうレオンばりの少女漫画展開があって悪くはない。すべては厨二少女の妄想なのだから。そういう少女性を新海誠は理解している。そういうニーズをわかっている。そういうところはちゃんと商売人である。おとなである。はずなのに。ねえ。
透明な空気感がこのひとの持ち味。その才能がこの長編に空費されたのが惜しまれてならない。いいプロデューサー、いい脚本家、いい演出家がついて、というかガチガチにこの若造を縛って、「思い通りのものをつくらせない」ようにするととてもいいものができるのだろうと思う。
音楽、映画で我々は独立プロ、セルフプロデュースなるものがもたらす大惨事を既に知っている。その民主主義の虚妄にじゅうぶん絶望している。
映画監督にほしいまま作りたいものをつくらせれば、できあがるのは「天国の門」であることを知っている。
ああ、でもそしたら「新海誠」であるレゾンドエトルがなくなるのか。ひとりでできるもん! が、このひとが業界に与えた衝撃だったのだから。
母親が狂ったように行方を捜すだろう事態に一切思い及ばない主人公が異常。成績の良い賢い子、という冒頭の設定がそういう後顧の憂いなき大冒険のくだりで一挙に吹き飛ぶ。そもそも彼女は傭兵先生にくっついて旅をする理由が皆無なのだ。だからどれだけ次々に難局が襲いかかってきても、俺たちは何の感情移入もできない。
当然、当然、新海誠としては、これ、証明なんでしょ? 「王国は我にこそ継がれうべし」という。オマージュてんこ盛りだもの。でも……試写観た廷臣はみな頭抱えたんじゃないかなあ。「これならまだ馬鹿息子のほうが」。むしろ世襲やむなしの派閥を勢いづかせてしまったのではないだろうか。いや、そんな派閥やら廷臣やらあるのかいるのか知らないけれども。
原作脚本 新海誠
脚本協力 松田沙也
キャラクターデザイン 西村貴世
絵コンテ・演出 新海誠
作画監督 西村貴世 土屋堅一
制作 コミックス・ウェーブ・フィルム
製作・著作 新海クリエイティブ CMMMY
監督 新海誠
公開 2011年5月
2002 『ほしのこえ』
2004 『雲のむこう、約束の場所』
2007 『秒速5センチメートル』
『秒速5センチメートル』は素晴らしかった。「都心から茨城だか栃木だかまで電車で行くのはとてつもない大冒険で、土地の者しか知らない風習や大自然の猛威が旅人に容赦なく襲い掛かる」というフィルム体験は文句なしに斬新、衝撃であった。世界の果てなど目指さなくとも、俺たちは新宿から埼京線に乗るだけで生死の境に直面することができるのだ。
少年の日の夢を、宇宙(ルビは「そら」)へのあこがれを大事に守った男は挫折し女は結婚指輪という現実と賢く和解する、という残忍な、しかし野島伸司脚本の如きウェルメイドなストーリーに少なくとも俺はグッと来たね。百億光年の孤独に思いを馳せた主人公が次の瞬間仕事にも恋にも挫折して中年のとば口を迎えている描写に俺は拍手喝采だよ。
しかしあとの三作はすべて駄作。「雲の向こう」も「星を追う」同様「なにがしたかったんだか」。ネットではやりの言葉で言うなら「誰得なんだよ」。
2019/10/10追記:「君の名は。」の感想
いやあ、ひどいね。ひどすぎるね。なんだろうこれ。
何を考えているんだろう。
もうね、10分が限界だよ。観るの。通して観るの。だからちびちびちびちび観たよ。何ヶ月もかかって。そんないやなら観なきゃいいじゃんだけど観たよ。
おそろしく長い悪口になると思うので最初にサマリーだけ、見出しだけ列挙しておく。
宮崎駿オマージュ、キャラクターデザイン、頭でっかち、5秒ごとに「はっ!」。マイケルベイ方式。音楽盛り上げ。長い。無駄に長い。新興宗教? 金どっから出てるのよ。新任の先生は特務機関員、と思ったら実はアガルタ研究者で元軍人で奥さんを蘇らせようとしているのだった! 厨二女子の妄想。
オマージュという言葉を最初に知り、かつそういう言葉で修飾することに何の意味があるのか? と初手から疑問を抱くきっかけになったのはデパルマのアンタッチャブルだった。既にポチョムキンを複数回見ていた俺にとって、デパルマが乳母車を階段に転がすことが引用行為であることは理解したが、なぜそれがこの映画のあの場面において引用されなければならないか、また、なぜそれが「オマージュ」と特別に横文字で呼称され、「な、これ、エイゼンシュテインへのオマージュなんだぜ。すごいだろう」と、それこそ敬意を強要されなければならないのかがさっぱりわからなかったのだった。それはいまでもわからない。
その愚行を更に低レベルでこれでもかこれでもかとリプレイしてくれたのが本作「星を追う子ども」である。
しかしどうなんだろう。宮崎駿、試写会招待あったんだろうか。これはさすがに本人も、惣流アスカラングレー同様「ぎぼぢわるい」とうめくしかなかったのではないだろうか。
もう最初から、5分と見続けることが苦痛になってしまったのだが、その原因は複数あって、まずはキャラクター造形、キャラクターデザインにある。
主人公の女の子、全然萌えない。頭でっかち、間抜けの小足で、なんだか体型のバランスが変なのだ。サザエさんみたい。それでいて顔だけはナウシカ、さつき、キキ。
パンチラを期待させるサービスカットが豊富だが、「こいつの見えても別に……」な気分が先に立つ。
エプロン姿に至っては安っすい風俗コスプレ、東南アジアの少女買春、そんな匂いを感じてもう発情興奮どころじゃない。痛々しさが先に立つ。
見てらんない理由の第2は5秒ごとに訪れる新展開。「はっ!」「ハッ!」と登場人物たちは何事かに気づく。驚く。驚いてるのはキャストばかりで観ている俺たちはまるでついていけない。5秒ごとに、5分ごとに驚く人間のことをわたしたちは一般に「うっとおしい」と言う。
そしてまたその「驚きの展開」ってやつがさあ。なんだかもう。新任の先生、授業中に突如「謎の超古代文明」について語り始め(たぶん文部省指導要領違反)、その日のうちに中学生の主人公住所職員室で聞き出し独身成人男子の住まいを訪問。先生も先生だ、西日射すアパートに教え子を招き入れイカれた与太話の続きを開陳する。そしてその先生、先生というのは仮の姿、実は政府特殊部隊、秘密組織の一員で元傭兵でんで更に特殊部隊というのも実は世を忍ぶ仮の姿、組織に身を寄せていたのも実は組織を利用してアガルタに潜入し亡き妻を蘇らせるのがその真の目的であったのだ!
……死ねばいいよね(←悪意を込めた悪口にあらず)。ふつー。ふつーまず、そ-考えるよね。死んだひとに会いたい時は、さ。アガルタがどうの入れあげる前に。この男、死ぬのはすっげーヤなのかな。元傭兵なのに(なぜか欧州戦線)。
アガルタの描写が宮崎ハヤオオマージュを通り越して物凄くニューエイジなんだよね。エコでオカルトでスピリチュアル。あの飛行物体とかね。すごく気味が悪い、気持ち悪い。この映画やけに長いしスタッフも大勢だから、金かかってんだろうから、「どっから金出たの?」とまず考えてしまうのはそういうはしたないこと。まあ特定の宗派を意識させるものはなかったからどっかの宣伝ではないのだろうけど。しかしこのフィルムのせいで新海誠にそういう発注が今後来る可能性は高いと思う。
組織に利用されるふりをしつつ利用して亡き妻を蘇らせる妄執のひとってのはあれか。碇ゲンドウオマージュか。でもこのひとかわいそうなんだよね。最後の最後、「先生にはわたしたちがついてなきゃ!」っつって来なくていいのにしゃしゃり出てきたクソガキどもに大願成就邪魔されて目も潰されて。遠路はるばる何しに来たの? という徒労感。邪魔立てしといて人生哲学だか説教だかまで垂れやがる青二才。怒り狂って八つ裂きにしていいはずなのになんかおとなしいままの傭兵先生。もうなにがなんだかさっぱりわからないよ。
あなたのハートにはなにが残りましたか? 俺のハートにはなんにも残らなかったよ。この無駄に冗長で退屈な頭のおかしいフィルムへの怒り以外には!
音楽もおっきいよね。さあ、ここ、クライマックスですよ! 泣いてください! と5分ごとに盛り上がる音楽。マイケルベイ方式。だから異常に退屈だったんだな。アルマゲドンとおんなじ。……てことは。これ、意外に興収良かったのかも。バカども喜んだのかも(感動しました! という感想を実際ネットで見つけて唖然)。
二、三日一緒に過ごしただけの行きずりの女の子と別れるの、あの大げさっぷりどう見てもおかしいよねえ。すごい変。
いいとこまるで皆無、とまでは言わない。少女は自分の真意を告白している。「わたし、寂しかったんだ」。夢見がちな空想少女の本音はつまるところそこに帰着する。だから新任先生が実は特殊部隊精鋭でわたしを別世界へ……っていうレオンばりの少女漫画展開があって悪くはない。すべては厨二少女の妄想なのだから。そういう少女性を新海誠は理解している。そういうニーズをわかっている。そういうところはちゃんと商売人である。おとなである。はずなのに。ねえ。
透明な空気感がこのひとの持ち味。その才能がこの長編に空費されたのが惜しまれてならない。いいプロデューサー、いい脚本家、いい演出家がついて、というかガチガチにこの若造を縛って、「思い通りのものをつくらせない」ようにするととてもいいものができるのだろうと思う。
音楽、映画で我々は独立プロ、セルフプロデュースなるものがもたらす大惨事を既に知っている。その民主主義の虚妄にじゅうぶん絶望している。
映画監督にほしいまま作りたいものをつくらせれば、できあがるのは「天国の門」であることを知っている。
ああ、でもそしたら「新海誠」であるレゾンドエトルがなくなるのか。ひとりでできるもん! が、このひとが業界に与えた衝撃だったのだから。
母親が狂ったように行方を捜すだろう事態に一切思い及ばない主人公が異常。成績の良い賢い子、という冒頭の設定がそういう後顧の憂いなき大冒険のくだりで一挙に吹き飛ぶ。そもそも彼女は傭兵先生にくっついて旅をする理由が皆無なのだ。だからどれだけ次々に難局が襲いかかってきても、俺たちは何の感情移入もできない。
当然、当然、新海誠としては、これ、証明なんでしょ? 「王国は我にこそ継がれうべし」という。オマージュてんこ盛りだもの。でも……試写観た廷臣はみな頭抱えたんじゃないかなあ。「これならまだ馬鹿息子のほうが」。むしろ世襲やむなしの派閥を勢いづかせてしまったのではないだろうか。いや、そんな派閥やら廷臣やらあるのかいるのか知らないけれども。
原作脚本 新海誠
脚本協力 松田沙也
キャラクターデザイン 西村貴世
絵コンテ・演出 新海誠
作画監督 西村貴世 土屋堅一
制作 コミックス・ウェーブ・フィルム
製作・著作 新海クリエイティブ CMMMY
監督 新海誠
公開 2011年5月
2002 『ほしのこえ』
2004 『雲のむこう、約束の場所』
2007 『秒速5センチメートル』
『秒速5センチメートル』は素晴らしかった。「都心から茨城だか栃木だかまで電車で行くのはとてつもない大冒険で、土地の者しか知らない風習や大自然の猛威が旅人に容赦なく襲い掛かる」というフィルム体験は文句なしに斬新、衝撃であった。世界の果てなど目指さなくとも、俺たちは新宿から埼京線に乗るだけで生死の境に直面することができるのだ。
少年の日の夢を、宇宙(ルビは「そら」)へのあこがれを大事に守った男は挫折し女は結婚指輪という現実と賢く和解する、という残忍な、しかし野島伸司脚本の如きウェルメイドなストーリーに少なくとも俺はグッと来たね。百億光年の孤独に思いを馳せた主人公が次の瞬間仕事にも恋にも挫折して中年のとば口を迎えている描写に俺は拍手喝采だよ。
しかしあとの三作はすべて駄作。「雲の向こう」も「星を追う」同様「なにがしたかったんだか」。ネットではやりの言葉で言うなら「誰得なんだよ」。
2019/10/10追記:「君の名は。」の感想
たまたま見たんだけど、痛烈な批判で面白かった
返信削除自分もとにかく気持ち悪い映画だと思った
最後の廷臣のくだりは最高
宮崎駿の前に宮崎駿無し、宮崎駿の後に宮崎駿無し
コメントなどいただけることほぼ皆無なのでチェックすらせずいままで放置してましたごめんなさい。過分なお褒めのお言葉に大変恐縮しております。
削除さて、食わず嫌いで「君の名は」を観ないでいたのですが遅まきながら観たら「あれ、結構いいじゃん」となって新海誠は鬼門というか評価が我ながら揺れるなあ、という厄介な感じです。
「天気の子」も途中まで感心しながら観たのですがなんか最後が「違うなあ」とか思っちゃってやっぱり評価が揺れます。
まあ二作とも「星を追う」の退屈さに比べたら全然いいのですが。