アマプラの190円レンタルで観た。
1923年。百年前のアイルランド。それを百年後であるこんにちの映画にすることにはつまりこんにち的意味があるはずだ。
字づら上で語られることとは別のストーリーが隠されているような気がする。コルムは時間を無駄にしたくない、百年後も残る何事かを残して死にたい、というようなことを理由にしている。しかし彼は以前パードリックとしていたと同じようなタイムスケジュールでパブに行きエールを飲み村民と雑談をして楽しんでいる。だから時間が惜しいは言い訳である。
もちろん「お前の話はつまらない」も理由に上げてはいるが、では他の村民は? 島の無教養な田舎者であることに変わりはない。コルムは本当の理由を隠している。
妹シボーンがひとつの基軸、基準線として機能している。彼女の言行だけが正しく共感できるものとして描かれている。そのことの意味があるはずだ。コルムの奇行、言動に触発されて彼女は自己を実現できる環境を選ぶ。行動する。兄の世話係であることを彼女はやめる。
ラストの収拾がとてもよかった。こういう話のクリシェ(和解。悲劇)とは別の結末。確かに正解はこれしかない。闘いは続くのだ。手打ちなどあり得ない。
[2024/12/16追記]
町山氏の論考に触れて蒙を啓かされた。なるほど、それですとんとすべてが納得できる。
教会の告解はミスリードなのだ。映画で語られるセリフは語られるセリフであるにすぎない。真実性など一片も保証しないのだ。その基本を忘れて俺はすっかり騙されてしまった。「その」可能性に一旦は思い及びながら!
1923年アイルランド、というのはつまり「わかるでしょ? これでわからなきゃバカだよ」というヒントもヒント大ヒントなわけである。絶対に誤読するなよ、つかしないでしょ、しないように作ってあるからねと。繰り返し映る十字架。信仰篤い土地なんですよと。時代なんですよと。個人主義もLGBTQもなにそれおいしいのなんですよと。
俺が思った通りコルムのあれは言い訳なのである。行動は見事にそれを裏切っている。パードリックのことがほんとは好きで好きでたまらない。
シボーンはシボーンで彼をその知能ゆえに拒絶したわけではないのだ。曖昧な微笑みの底に言い得ぬ悲しみがある。
同時にまた1923年アイルランドはミスリードの役目も果たしている。内乱、紛争。コルムとパードリックの争闘はそんなものと実はなんの関係もない。その文脈で誤読させるようにも機能している。
指はもちろん男根であり切断は自罰である。内面のコンフリクトは自己破壊に至るしかない。ディックをくわえたロバの窒息は暗喩に他ならない。
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