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「ルックバック」2024.

 アマプラで観た。とてもよかった(原作は未読)。 自然、農村風景、握り合った手が「不穏」しか予感させない。その張り詰めた、切れるほど美しい美術に圧倒された。 マルチバース物としてはこれに先立って観たエブエブよりずっといい。 藤野が人生で初めて反省、悔悟した瞬間時空に歪みが生じ京本の四コマがスリットから藤野に届く。それは藤野が京本を救う世界線の実在を約束する四コマだ。 その幸福な世界線と悲劇の起きた世界線はけして交わらない。明るい未来に踏み出していた京本はけして生きて還らない。しかし、そうでない世界がある。交わらずともある。なぜあるか? 藤野が心からの反省をしたから。悪意に満ちた軽薄な紙片を嫌悪とともに破り捨てたから。調子乗りのエゴイスト、なんの役にも立たない自分を心底嫌悪したから。その後悔が、別の世界線を生んだ。 そんなの意味ないじゃん? ある。このルックバックという作品が実際そのように機能しているからだ。大丈夫、自信を持て。その才能を伸ばせ。君にはできる。こうしたい、こうなりたいという方向に一歩を踏み出す勇気を持て。君の未来は明るい。そのメッセージを受け取った読者は、そうでなかった人生と別の世界線を確実に歩み始めるのだ。 このエールを伝うるに現代思想の豊富な参照、援用など必要ない。ただそこに藤本の素朴な誠実だけがあればいい。倫理と物理が交わる瞬間を藤本はシンプルに描いている。これは正義の物語なのだ。

エブエブ Everything Everywhere All at Once, 2022.

 アマプラの見放題に降りてきたので観た。 ……。うーん。 開始二十分位でやりたいことは概ねわかるのだがくどいというか話が進まないというか。それはもうわかったからさあ、いう。 マトリックス大好き(旧式コンピュータのレジスタンス、この世の仕組み、真の自分、クッキー、カンフー)なのはまあいいとして、しかしこのグダグダな叙述はどうよ。 マリエンバートとゴダール「ってなんか難しそうでこれの真似するとカシコに思われるから真似よ」と思って作った凡百の学生映画を観てる感じ。石とかもう幼稚で最悪。「世界の中心はベーグルだ!」とか中学生がノートに書くSFやんけ。それでいてカンフー、マトリックスもやろうとしているから主人公が力に目覚め(結構早くに)て戦うのだけれどそれがクライマックスに至らずまた「あのときこうしていれば」の後悔を見せられる。5分毎に見せ場を濫発して飽きられる文法はアルマゲドンと一緒。 そしてなんというか汚い。うんこ座り、エイナルファック。中華人民は汚くて下品です、というアピールになにか積極的な意味があるのだろうか? 「すごく変なことをするとジャンプできる」いうのもSF設定としてどうなの? 「すごく変」をジャッジする物理法則ってなに? ストレートに「家系」映画なのだが、娘さんはガールフレンドを伴って初手から家を訪れているのでひとつも音信不通、疎遠じゃない。母ちゃんは「あのときなぜわたしを止めてくれなかったの?」と終劇近くで父親に甘ったれたことをぬかす。母ちゃんは体験を通じてひとつも成長していない。 ルッソ兄弟の関与が信じられない出来栄えである。

「ローガン」Logan, 2017.

 配信でいま頃観た。 Xメンを実はちゃんと観たことがない。なにか特につまらないやつを一本観たことがあるけど内容をほぼ覚えていない。 だが世評通りこのローガンはよかった。 落魄を描いた映画といえば成瀬巳喜男の「さすらい」があるが、それと同じしんどさつらさをまさかスーパーヒーロー映画で味わうことになるとは思わなかった。いや、そんな作品だからこそ流れてくる評判もよかったのだろうが。 いろいろあって家を失うまでに至った老人、壮年がいろいろ頑張ったが結局全員行路病死する。アガる要素ゼロの話である。 大急ぎで移動しようと車椅子をたたみ車に詰め込む。彼を抱えあげ座席に座らせる。プロフェッサーXは悪と戦う司令塔どころか社会のお荷物、家族のお荷物である。加えてなにか大変なことをしでかした結果がこの平家の落人的な状態の原因らしい。彼らはパブリックエネミーなのだ。 父親が銃口をローガンに据える。弾切れで思いは果たせず彼はそのまま絶命する。つらい場面である。どうもローガンなりXメンたちというのはそういうキャラクターらしい。ひとを助けるどころか結果として迷惑をかけ恨まれていくのだ。彼らに落ち度がないにも関わらず。 殺戮描写はイクストリームで素晴らしかった。ひと殺しはよくないぞ、と通り一遍の説諭を父は娘にするが行動がそれを裏切っているしそれでよいのである。相対化する必要のない厳然とした悪。それを叩くに情けは無用! 娘は正しく父の行動から正義を学んでいる。

「君たちはどう生きるか」2023.

 金曜ロードショーを録画していま頃観た。 現実とは物語の素材でしかない。大胆なドラマツルギーの提示に「思い切ったことするなあ」と俺は感心した。しかし終盤。それは戯作者の思い上がりであり、そのような倨傲と独立して世界は実在する、として、主人公は物語(理想郷。王位の継承)を拒否し、悪意、暴力、矛盾に満ちた現実に帰っていく。世界は戯作者(神)の素材ではない、我々(ひと)はここで現実に生きているのだ、と。これはナウシカで墓所の主の誘いを、生命は光だと言う向日性のイデオロギーを峻拒したのと同じ展開である(VerySpecialOnePattern)。 奥さんの美しい顔が鳥の白い糞尿まみれに汚れるのは「顔射」であり、少年の精通を暗示している。つまりこれは少年版魔女の宅急便である。彼は労働し屠畜し夢精し男になった。あるいは森の中で実際に義母と密会し童貞を失ったのである(ご丁寧に遣り手ババアも用意されている)。個人教授とか個人授業とかいうタイトルのイタリアンソフトポルノ(若く美しい義母とのひと夏の体験、とかいうあれ)も駿の手にかかればこのようにソフィスティケイトされる。導入部の濃密濃厚なエロティシズム、あからさまな誘惑が無意味な描写であるはずがない。 落ちてきた石くれは言うまでもなく突き立った巨大なファロスであり、そこから最後白濁液が勢い良く噴出する(宮崎作品であからさまに「宇宙人の超技術」なるベタなSF展開が登場するのはこれが初めてだと思う。異界のマレビトくらいの意味合いしかないとは思うが唐突でいささかとまどう)。 見てはならぬ巨石の穴はもちろんファロスの対応物、女陰であろう(奥で光っているのは濡れている、の表現でもある)。 リトルニモという企画にどれだけ宮崎が魂と労力を注ぎ込んだか(無能ゲイリーカーツのせいで実現しなかったことをどれだけ恨んでいるか)の片鱗も伺われる(すべてはあの部屋の、鉄製のベッドで紡がれた夢かもしれないのだ )。それが「宮崎駿戦前自叙伝シリーズ」二作ともに反映しているのは偶然であろうか。 侵略戦争に狂奔した大日本帝国は、戦後の青年コミュニスト宮崎にとって絶対に復活させてはならないギガント、敵であった。しかし自叙伝シリーズ二作において戦前の身分制社会は隠しようもなく懐古、郷愁で染め上げられている。アパークラスの生活は金銭面物質面のみならず精神的にも丹精...

「ウォッチメン」Watchmen, 2009.

 ブルーレイが安かったので買って観た(いま頃)。 なかなかに震撼した。 映画の構成は「正解」としか言いようがない。冗長な説明セリフがないから最初はどういう世界なのか把握できないが、心配しなくてもただずっと観ているだけで玉ねぎの皮を剥くように少しずつわかっていく親切設計。 しっかりしたストーリーラインを備えていながら、「ウォッチメン、という言葉をモチーフとする映像詩」の性格も併せ持っている。 長大な映画だ。俺は30分ずつくらいちびちび観たからいいけど、これを小屋で一気に観た人々の存在がちょっと信じられない。俺には無理だ。痔ではないけど尻が爆発する。 「この変なアニメ要る? 省いちゃえばだいぶ短くならない?」と思ったが決して無駄な寄り道ではなかったことが結末で判明する。恐怖に呑まれて自滅する話なのだ。 あのイケメンの天才くんの会社も南極基地もその意匠は意図的に「鉄とガラスの水晶宮」であり、この原作者は明らかにドストエフスキイに淫している。ヒーローアクションの器で「大審問官」をやろうとしているのだ(極寒のクリスタルパレスにいるマントの彼はスーパーマンだし実家の太い秘密基地の彼はバットマンだ)。 少数の優れた者(党幹部。超人)が世界管理の重責、批難、欺瞞、嘘をすべて引き受け、残余の人類にパンとサーカスを保証する。カラマーゾフの短い挿話は梗概そのような話らしいのだが(俺も読んだけど文字が脳をすべって意味を結ばなかった)まさにその映像化がここに実現している。 埴谷雄高は「唯見る人」(ただみるひと)という小説を構想したが果たせず、また、「死靈」は当初「筒袖の健坊」を主人公にした「暴力をその果てまで貫徹した場合をリミッターをかけず夢想する思考実験」(埴谷雄高版コマンドー)として書き始めたらしいのだが、ウォッチメン(唯見る人)はまさにその二つともを映像化することに成功している。ということは、かつて文豪の夢想した三つの文学作品がここにマージしている。 賞賛を書き連ねたが疑問、不満もある。おおこれは、ダークナイトなど遥かに凌駕する重厚な作品ではないかと興奮気味に観たのであるが、結局最後はインテリ、リベラリズムへの嫌がらせ(中学生大好きトロッコ問題)なのかと。工夫を凝らしたしつらえではあったが、冷静に考えてみればその奸計において仲間を欺くこと、殺害することまで必須であったのか。 ド...