NHKBSの録画をいま頃観た。というか、小津初完走(以前別の作品を最初の十分位で脱落している)。
つまらん!
観終わるのに二ヶ月くらいかかった。まあつまらん!
話と文法が退屈なのに加えて決定的なのはあの腑抜けた劇伴である。「秋刀魚の味メインテーマ」と言っていいだろうあの旋律。ニュースフィルム「未来がここに 多摩ニュータウン」の劇伴としてそのまま通用しそうな没個性的で当たり障りのない、ドラマチックの語と真反対の楽曲。
その旋律がなんとあの、ひょうたんの家で彼女が泣くシーンにまで明るく流れている(ここはストーリー上重要な意味を持つシーンであるはずだ)。楽曲の使用におよそ「演出」が感じられない。音がないと寂しいから、くらいの理由で、エレベーターミュージックと等価値にそれが存在している。
これはどういうことなのか。あとで判明するのだがそれはひとまず措く。
いま記した彼女が泣くところ。これがまたよくわからない。ストーリーの理屈としてはわかる。しかしひょうたんは法外に泥酔して帰宅したわけでもない。酔漢としては比較的扱いやすい部類としておとなしく帰ってきた。巨大な恥辱としてさめざめと泣くほどではない。
そしてメガネが「ああなっちゃあおしまいだ。おい、お前の娘もああなるぜ」と言うのもわからない。俺からすれば彼女らを「おしまい」にするのはメガネ、お前の、お前らのそういう「常識」だろうとしか思えない。
嫁がぬことのなにが悪い。
父親のせいで彼女がそうなった。それこそ彼女の自主性、自律性に対する侮辱であろう。
ここでわからぬのがつまり小津の意思である。
俺は小津映画を完走したのはきょうが初めてだ。だから小津の作家性、思想、信条、主張がさっぱりわからない。
このシーンでつまり小津は何を言いたいのか? がいちいち計りかねるのである。
笠智衆演ずる主人公はおそらくそこそこ高学歴で(だから戦時も士官であった)いまの職業も社会のアパークラスと言っていいはずの身分、収入に見える。高度経済成長の原動力となった石油、それを精製する会社の現業ならぬ事務管理部門で秘書付き執務室付きの上級職に就いている(石油はアメリカとの開戦事由となった戦略物資である。この職業設定はたぶん偶然ではない)。
彼はどこか達観しており、誰になにを言われても「そうかね」で受け流す。かといって人物かというと、岩下志麻演ずる長女に対する振る舞いは俺から見ておそろしく鈍感に見える。「まあ下でお茶でも飲もうよ」。失恋でダメージ食らって茫然自失の彼女に、彼は「一緒にお茶を飲もう」と言っているのではない。「おい、俺達にお茶を淹れろ家政婦」と言っているのである。
息子夫婦の団地を訪ねたときも「まあいいじゃないか。外で適当に済ませれば」。夕食を作り(奥さんもハンバーグを買ってきて)さあ食べようというときに「おい、飲みに行こうぜ」。
自覚的に家父長制の歪み(女に無償のシャドウワークを強い男は出世、料亭、ゴルフ。人生を謳歌)を描こうとしているのか、それとも小津自身が主人公と同じ価値観だからその鈍感がそのままフィルムに定着しているのか、どっちなのかがわからない。
ストーリーは単純で「行き遅れた女の悲惨な実例を見て娘の婚期を焦った父親が無事娘を嫁がせる話」で、その終着点に至るまでに波乱もカーチェイスも製油所の大爆発もない。
だがそれが主題であれば団地やゴルフクラブやトリスバー(で出会う元部下。軍艦マーチ)は不要なはずである。出てきた以上それはなにか意味があるはずだ。
団地の懈怠した会話にはもはや憧れを喪失した結婚の現実がある(当時憧れだったはずの団地が味噌醤油を貸し借りするコンクリ長屋でしかないことを既にして小津は看破している)。ゴルフクラブは彼が野球のバットを欲しがる小学生にまで退行している現実逃避を表している。そして笠智衆が苦い盃をあおると、軍艦マーチはあのぬるい、エレベーターミュージックのアレンジで流れここで終劇となる。
これにはやられた。つまりやる気のまるでないと思われた劇伴演出は意図的なミスリードであったことがここで判明するのである。隣席では男ふたりが「南鳥島では負けました」「はあ負けました」と愉快に語る。軍艦マーチは旧軍への哀惜、復古ではない。日本国の敗戦を象徴するそれだ。
彼は二度目の敗戦を迎えた、そういうことであろうか? 映画は「娘に去られた父親の悲しみ」という普遍的喪失感を描いているようにも見えるし、またこの男にしかわからぬ特殊な悲劇を描いているようにも見える。おそらくは意図的に、両義的に作っているのだろうとは思う。
ひょうたんがなぜ町中華のオヤジであるのかがここで俄然気になってくる。教職にあった人間が年金で食うでもなく落魄と見える職替えで生き延びているのは公職にいられなくなったからだ。つまり娘がどうのという「テーマに見えるもの」それ自体が実はミスリードである可能性もあるのだ。
娘は高島田に結い三つ指ついて嫁いでいく。トリスバーでかつての部下は言った。「勝ってりゃいま頃金髪女に島田を結わせ」。戦争はいまだ続いている。男は征服者としてその意思を女に強要している。
一種の判じ物として自分に考察が及ぶのはここまでである。それは楽しい観方ではない。小説で言えば小津の文法は内面の吐露、独白というものを完全に排除しているそれだ。客観描写だけがそこにあり、各人の真意は観る者の解釈に委ねられている(小津に限らず映画のセオリーだが、セリフで語られる感情は嘘である可能性があるのだ)。
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