「叫ぶ指揮者」の頁でも書いた通りいまに至るまで格別のクラシックファンではない。どころか音楽全般について好みのジャンルも詳しいジャンルもいまだないままだ。むしろ聴けば聴くほどわからなくなってきた。
自分には好きな音楽など実はないのではないか。
「ふむ。聴かせてもらったが……自分には良さがまったくわからん」。「富士に立つ影」で熊木公太郎が発した言葉に自分は衝撃を受けたのだからたぶん自分も本当のところはその口なのだ。音楽に実は感興など抱いていない。好きなふりをしている。そのほんとうのところをただ人前で言う勇気がなくて他のひとと同じように人間のふりをしている。
実はここらへんの感覚とブルックナーに惹かれる感覚は無関係ではない。
少年の自分がたまたまエアチェックしたブルックナーの第九を「なんだこれ?」とはてなマークだらけになりながらそれでもヘビロテで飽かず聴いていたのもいまから振り返ってみると「それ」ゆえなのだと思う。
ベートーヴェン。途中をすっ飛ばしてマーラー。交響曲なるものを駆け抜けて聴いてきた自分からするとこれは明らかに異質な音楽だった。未完成に由来するばかりではない明白な欠落がある。
面白いもので芸術、科学はジャンルを異にしても不思議と大体同じ進化、盛衰を辿る。写実を極め精緻に描かれた泰西名画の極北、そこから急に写実性を放棄、代わりに見る快楽、色の愉悦を獲得した印象派。ブルックナーを印象派に分類するのは明らかに暴論なのだが、しかし明白にビルドゥングスロマンではない。苦悩に打ち勝ち歓喜に至る、そういう物語も因果律もここにはない。マーラーですらベートーヴェンを引きずる古典力学だった。ブルックナーの絢爛な色彩に理由はない。空無から気まぐれに生まれすぐ対消滅する粒子の儚さがある。(この頁途中)
コメント
コメントを投稿