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6月, 2013の投稿を表示しています

森鴎外、舞姫。

彼人々は余が倶に麦酒の杯をも挙げず、球突きの棒をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且は嘲り且は嫉みたりけん。されどこは余を知らねばなり。 …、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき業を教へられ、… …、定りたる業なき若人、…などと臂を並べ、… …、読みては又読み、写しては又写す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら総括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。… とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活をなすべき。…。人を薦むるは先づ其能を示すに若かず。…、人材を知りてのこひにあらず、…。意を決して断てと。… …、若しこの手にしも縋らずば、本国をも失ひ、名誉を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。… 我脳中には唯唯我は免すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち満ちたりき。 医に見せしに、過劇なる心労にて急に起りし「パラノイア」といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。…  嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。 (明治二十三年一月)   * * *  普通に分量のある小説かと思っていたので、小品であることに意外の感を持った。  小説というより、「文春にスキャンダルを暴かれた少壮官僚森林太郎がブログに書いた弁明記事」な感じだよねえ。少なくとも前半は。  読んだ人の九割方が絶対思うでしょ。「ありえねえよ」と。「うそでしょ?」と。なんだよ、あの出会い。「これそこなる娘、いかがいたした」「じ、持病のしゃくが。持病の差し込みが」。時代劇かよ。森林太郎、うそ丸出し。  通りすがりの異国人に窮状を手際よく洗いざらい話して家に招じ入れんでその厚情に臆面もなく縋る? ありえねえよ。  なんかこう、実際の馴れ初めをものすごく不細工に隠してる感が見え見えなんだよねえ。  しかし後半、「豊太郎」の懊悩はまあわかるというか、身につまされるもんがあるよねえ。成功を前にした男の打算。永遠の愛を誓っておいての裏切り。良心の呵責。森鴎外が生きた時代の一般倫理はいまの

Season 2 第2話 中央区日本橋人形町の黒天丼 

http://www.tv-tokyo.co.jp/kodokunogurume2/story/story2.html あなごかー。 こんなにたれが染みているのに、まだサクッとしている。  よし。こいつは半分とっておこう。  日本文化の粋というより、こりゃ祭だ。 ここから流れるオリジナルBGMの馬鹿馬鹿しさったらない。最高。 脚本、児玉頼子。 演出補、宝来忠昭。井川尊史。 監督、溝口憲司。 久住 「こういうの(撮影)がないと怖いんですよね。怖くて」 このエントリー上げることで偶然知りました。事前にわかってよかった。見逃すとこだった。 …「孤独のグルメ」。7月10日、待望のSeason3が放送開始します! http://www.tv-tokyo.co.jp/kodokunogurume3/ もうそろそろ飽きたころだと思います。過剰に期待しないでください。グレードアップしませんから!トーンダウンしない程度で。同じような景色の中で、同じように食べて、いつもと同じようにやっていますので、良ければのぞいてあげてください。

世界地図の間 横山裕一の衝撃

 貧者の娯楽「なめくじ長屋奇考録」をその日も見に行った俺は、そこに掲載された2葉のカットに激しく魅了されてしまいました。 http://namekujinagaya.blog31.fc2.com/blog-entry-2616.html  なんだ、これは。  たいして逡巡もなくアマゾンのボタンを押し、現物を入手してしまった。  読んでいて自然に「フューチャリズム」の語が想起された。美術史に詳しくないけれど的外れの感想ではないだろう。飛行機。船。疾走する自動車群。描線はすべて定規を使用してかっちりと描かれている。  吹き出しの形から一見デジタルツール使用の漫画と見えてしまうが、描線の端は微妙にはみ出しており、細密な仕事ながらこれが人間の手仕事であることを隠さない。曲線もおそらくは雲形定規を使用して描かれている。  横山裕一の漫画(自称、ネオ劇画)はなにかがチグハグだ。  2時間の映画を漫画化したとして、それが最初の三分で終了してしまった感じ。単行本一冊を使って2時間ある物語の最初の三分をコミカライズする作業に、いったいどんな意味があるか? おそろしくコストパフォーマンスの悪い営為であるが、そこにとてつもない人力を注いでいる情熱に読むものは圧倒されてしまう。行為の意味がわからないからだ。だから怖くなる。  ネオ蛭子、という感じだけれど、蛭子さんは長篇漫画を一度も描いたことはないし、たぶん蛭子さんならこの内容を8頁で済ましてしまうだろうと思う。8頁で済ませられる話だと思う。それほどに展開はないし会話もはっきりいってバカみたいだ。 「機内からこの建物を見下ろしてみたい」 「ならば機内の窓側に座らないとな」  バカみたいな会話だ。全篇、登場人物たちはあたり前のことしか喋らない。面白い話をつくろうという意欲が作者からまるで感じられない。その意欲がなければ普通ひとは作品なんかつくらない。つくれないだろう。なのにこのひとは作っている。現にここにこうして一冊の本がある。 「台風の本だ」 「魚類の本だ」 「爆弾の本だ」  バカみたいだ。しかもそれを何頁も。ゴダール、と言ってしまえばそういうもんなのだろうけど、芸術映画の虚仮威しで済ませてしまうとなにか、横山裕一にしかない重大な特質を取りこぼしてしまう気がする。  美

アンストッパブル

 これ面白いんだよ。おれ知ってんだよ。評判いいんだよ。そう思いながらきのうの録画を見始めたらまあしょっぱなから落胆したわけです。監督トニースコットて。面白くなるわけがないじゃん。  あー、結構な苦痛でしたなー。最後まで観るのは。録画ファイル即消したけどね。観終わった途端。二度と観ねえよこんなもん。  なんだこれ。アメリカ鉄道協会とか、そういうとこ文句言っていいんじゃねえの? これ。もう現場労働者ダレダレじゃん。仕事しねえわサボるわ私用電話勤務中にかけまくるわ。それも主人公格の二人が!  なんなんすかねえ。つまり、アメリカはいまテロの脅威にさらされていると。んでそれは外からではないと。内なるドキュンどもが実は国を脅かすテロリストなのだと。無能で怠惰な労働者が社会のインフラを突如大量破壊兵器に変えると。そういうメッセージを込めたわけですか?  つまりトニースコットはアメリカ人の大部分に喧嘩売ったわけか。でもどう考えてもこれドキュン向け映画だよなあ。アルマゲドンタイプ。「掘れ掘れ! いっしょけんめー掘れ!」って最初から最後まで土方が怒鳴ってんでまあどうにかなりました工機間に合いましたって、ひねりもなんにもねえ話。  若くして労組の委員長に選ばれたって、そんな風格もなんにもねえじゃんあいつ。だからあれか、実はコネでしたとかあとで設定に付け足したんでしょうか。  奥さんに携帯見せろ迫って接近禁止って、当たり前じゃん。されて当然じゃん。ちっちぇえ男。んでテレビでヒーローになったら「あんた凄いわいかすわ惚れなおしたわあ」つってより戻したって、ドキュン家庭かよ! ドキュン家庭なんだけど。  いらねえじゃん。そんなエピソード。マシンと男の戦いだけにフォーカスしろよ。家庭の不和職場に持ち込むなよ。  このクソ蒸し暑い土曜日の午後、こんなひでえ映画に時間費やして俺はもうがっかりだよ。不機嫌です。  トニースコット去年の夏自殺したんだって。知らなかった。  まあなんか、わからなくはないよねえ。接近禁止男の駄目さ加減、監督の自己投影あるでしょたぶん。  おにいちゃん世界の巨匠でさあ、んで弟は。「コネだろどうせ」とかやっぱ言われてきたんじゃないスかねえ。  なんなの、あのカメラワーク。ドキュメンタリータッチ狙って手持ちカメラ多用し

眠狂四郎無頼剣

「そうかもしれん。  そうでないかもしれん」 「思うこと言わねば腹膨るるとかで、余程思案に余る事なら聞かぬでもない。ただし! 断っておくが、わしはまともな人間ではない。当の本人がそういうのだから、まず間違いはないものと……承知の上でなら」 「俺はなあ。産みの母親は顔さえ知らんが、女の腹から生まれてきたに相違ないのだ。おふくろ様と同じ女生(にょしょう)に、理不尽を働く輩は、理非曲直は問わんぞ!」 「案外野暮な男だな」 監督、三隅研次。脚本、伊藤大輔。音楽、伊福部昭。 1966年11月9日(水)公開、1時間19分。大映京都。
うわー。

バトルシップ Battleship

DQN対バカ星人。学芸会映画。 「あと何分? あと何分?」。なーかなか終わってくれない。発狂しそうなつまらなさ。拷問だこりゃ。 コンビニ強盗の場面で「オモチロイオモチロイ」と喜ぶ人間が地上にひとりでも存在するのだろうか? 酔っ払ってDQNが見た夢。「こんな俺でも海軍入って世界を救って巨乳美女とコーマンパツイチ」。あったま悪すぎ。最低最悪の映画。 続編作りたがってるラストがまたムカつく。 ピーターバーグというひとの撮った映画はもう観ません。

母なる証明 mother

うーん、びっくりした。 もうひと波瀾、どんでん返しがあるかと思ったら「あのまま」終わったんで、そのことに驚愕した。「え! これで終わり!?」って。 うーん。善悪の彼岸を超えている。 たしかに母なることが証明されている。 日本でこれに匹敵する映画、存在するだろうか? 不明にして俺が知らないだけか? ユーモアを基調とすることで逆に語られている内容の異常、悲劇が際立つ。韓国映画、そのレベルの高さに俺は瞠目しました。 「あの」場面も凄かったけど、それに匹敵する……というか、あれはまあ最大の伏線といってもいいのだろうけど、「農薬」の場面、最初にびっくりしたんだよねえ。 主人公がお母さんから刑務官に一瞬にして変わる。彼、語られている内容の異常を全部把握した上で彼女の肩を抱き、同僚に的確な指示を出してその場を収拾しようとしている。 感情を持たない、非人間的な国家装置、みたいに描かれて当たり前の獄吏が、主人公以上の存在感と人間味を示すあの演出に監督の非凡を俺は感じました。 どうでもいいエピソードと思われたものが重要な伏線として片っ端から回収されるあの構造が凄い。焼酎ばばあ。馬鹿。あたまグリグリ。傘。紙幣の一枚を返す。鼻血。脱走囚。いやなことをすべて忘れられる太もものつぼ。 冒頭の出血とシャツの血からして既に伏線だったわけだ。 こんな不思議な脚本、普通の脳みそに案出できるわけがない。 なにを描こうとしたか? なにを訴えようとしたか? 語ることはできるが言語でまとめてみたところで衝撃ともやもやはなおも残る。それが本作のいちばんの凄みだろう。
 日本中の、大阪の住民票を持っていない人たちに言っておきたい。  大阪でこれから起こることの一部始終を、私たちは、よく見ておこうではないか。  観察と学習は、きっと、後々、役に立つことになるはずだ。 『場末の文体論』 小田嶋隆、2013年。
というよりも、もしかしたら、われわれの判断は、経験に毒される前の方が、純粋であるのかもしれない。  以来……というわけでもないのだが、私は、群衆を信用していない。集団を形成している人間は、その成員の一人一人が、いかに立派な人間であっても、集まっているという事実において、野蛮さを内包しているものだからだ。 『場末の文体論』 小田嶋隆、2013年。
 就活はどうするのか、って?  大学で学んだことが職業に結びつかないような生き方こそが、豊かな人生だよ。 『場末の文体論』 小田嶋隆、2013年。