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村上春樹『ノルウェイの森』

いま頃読んだ。
むう、よかった。意外なほどよかった。
賞取ったり人気高かったりすんのも当然だなと思った。いま頃。
もっと若い時分に普通に読んでりゃよかったなと思った。食わず嫌いせず。
文学に効用を求めるべきではないけれど、我が貧しい青春のみっともないエピソードを6割くらいは減ずることができたのではないかと思う。村上春樹を読んでおくことによって。

アスペ。メンヘラ。虚言症。いま読んでもいささかも色褪せないどころか、今日的な要請に十分応える内容。

登場人物がみんな好ましい人物なのも、なんというか、村上春樹の人柄なのだろうか。突撃兵ですら俺には愛すべき人物に変貌していった(彼の失踪原因が気になる)。永沢先輩も好きだなあ。本物の悪人であれば彼は思いやり深い好人物を演じることができるはずで、だが彼はそうしなかった。ある種の誠実を彼なりに貫いていたのだろうと思う。それは老獪とは程遠い青い努力だ。

それにしても痛快だ。芥川賞だエラいひとだと褒めそやした連中はたとえ買い求めたとしてもたぶん2,3頁も読まず、そのおかげでこれが本当に届くべき青年子女はおおっぴらにこれを書架に置き自由に読むことができる。父母公認に読むことを推奨されたりする。この笑うべき状況には村上本人大いに哄笑したのではないか。こうなると俗な賞の冠もあながち馬鹿にできない。

ワタナベ君が物置から自転車や机やを引きずり出し丁寧に補修する場面に特徴的だが、彼の真面目な学生生活とそのトリビアルな叙述は "What a methodist man Philip Marlowe is." を想起させる。これはたぶんハードボイルドの文体なんだろう。
突撃兵が途中でいなくなることは白鯨の黒人少年に似ているし(つまりそんな男は最初からいなかった)、冒頭印象深く始まる寮の国旗掲揚儀式も、その思想云々よりも「毎日決まった時間に決まったことを機械仕掛けに繰り返すことに執拗にこだわる」性格、症例の描写としてたぶん必要だったのだ。
つまり、突撃兵も寮監のふたりも、ワタナベ本人の第2人格ではなかったか。「これがまたおかしな奴でね……」とワタナベは自分自身の話を直子や緑、レイコさんに語っていた可能性があるのだ。もはやサイコスリラーであるが、突撃兵本人に彼女たちは会っていない。彼女たちからすればワタナベの話の中だけにそれは登場するのだ。

驚きのエンディングも『赤い収穫』のあの驚愕に近い。これは宗教右派的道徳の峻拒であり、かつまた新しい倫理の提示でもある。放縦ではない。ニュールールに従ってレイコとワタナベは直子のお弔いをしたのだ。
否、葬儀とは元々こういうものだったのではないか。本来の形をふたりは現代に蘇生させただけなのかもしれない。

村上春樹への反感というのは、むやみにモテまくる主人公に対する反発から来るものかもしれない。しかし注意深く読むならば、主人公、果たしてあれはモテている、と言っていい状態なのであろうか。
いい思いどころか、彼は常に一種利用される側だったのではないか。心を病んだ女たちにとって、ワタナベだけが彼女たちにはつけいる隙のある存在だった。思いやりと性欲を共に満たしてくれる異性として、稀有に与し易い依代だったのではないか。
何もできない僕、というシンジ君に先立つこと何十年も前に、このような悲劇の主人公は既に登場していたのだ。

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