演出はまあまあひどいし脚本も練り込みが足りない。力足らずの役者さんもいる。学生自主映画のようにぎこちない間が、空白が、スが入る。テンポも悪い。
でも、しかし。
これはテレビでは不可能な、配信で可能となった野心的試みであり相当に攻め込んだ内容であることは間違いない。
見まいとしてもSNSで容赦なく概要、輪郭は漏れ伝わってくる。曰く、「もやもやする終わり方」。なのでそれを覚悟していたら、いや、けしてそんなことはなかった。みんないい方向に俺をミスリードしてくれた。
光太郎は本懐を遂げた。葵と力を合わせて創世王を倒したのだ。納得できる堂々たるエンディングではないか。
「おじさん。戦い方を教えて」。まさか戦闘訓練の所作ひとつひとつが非常に具体的な形でクライマックスにつながるとは思わなかった。脚本に多く不満がなかったわけではないがこの件りは文句なく見事であった。
勿論「もやもやした」理由はわかる。ゴルゴム党は首をすげ替えただけで政権与党の座を守った。怪人差別は変わらず続いている。だがその理由は、俺たちの現実がまさにそうだからだ。監督は悪が倒れ平和が戻ったなる偽りの大団円を許さなかった。葵はリモートで国連に登壇し人々を真正面から面罵する。「いまへらへら笑って見てるお前! お前が差別を許してるんだ! 悪はお前だ! この世を地獄にしているのはお前らだ!」
彼女は銃を執り武装する。一片の妥協もなき世界革命戦争を準備、開始するために。それを批難、批判するのは容易い。ならば言おう、君らお得意のセリフで。「対案は?」。なおも言おう。君らは笑っていたではないか。デモで社会は変わりませーん、演説で平和は訪れませーん、と。だから彼女はサラコナーになった。「相手を殺す気でやれ!」と教官は戦士を叱咤する。デモを請願を演説を一顧だにしなかったお前ら差別主義者に、右でも左でもないフツーノニホンジンに、葵を責める資格など一片もありはしないのだ。
彼らの戦いは我らが受け継ぎ、我らの戦いは君らが引き継ぐ。
我らは遠くから来た。そして、遠くまで行くのだ。
全学共闘会議の、忍者武芸帳のスピリッツを2022年に堂々圧し出した監督の心意気を、俺は全面的に支持する。
満洲から続く堂波家三代目がいとも簡単に斃れた。その情景はつい先日我々が現実に見た光景そのものだ。このシンクロニシティーは単なる偶然か? そうではないのだ。
作劇に現実を繰り込む努力はすなわちシミュレーションであり、ときに起こりうべき現実を先取してしまうのはひとつも怪しむに足りない。政権中枢に密教組織が巣食い差別が野放しにされるその結果はこうなると演繹した。それがひとの目にはただ予言と映るだけだ。
冒頭でひどい演出だなどと言ってしまったが素晴らしい場面もいっぱいある。以下脈絡なく列挙したい。
吊るされた俊介が映るのはカメラが鮫栖市場のチョゴリやキムチの店を舐めたその後である。そこには明確な演出意図がある。言葉に依らず映像で語る。だからそれはテレビ的演出の真逆に不親切であり、観る者の知性をむしろ要求している。自分で見つけろ、この意味を考えろと。甘やかしがないのだ。
在特会の桜井なにがしをあれするところ(そして付録がみんな蜘蛛の子を散らすところ)も実に良かった。
「お前らずっと負け続けだ。馬鹿なんじゃないか? でも、俺はその続きが見たくなった」。車椅子の光太郎にくじらが語りかけるその背後に全学共闘会議、もとい全国五流護六共闘会議の旗がひらめいている。日蝕をモチーフとする、日輪を喰らう旗だ。日章旗を否定する黒い太陽。ブラックサンは「反日」なるレッテルのそしりを受けることに臆病でないどころかむしろ堂々それを引き受けている。
葵の反日武装戦線(新政権とそれに迎合するマスメディアはこの組織をおそらくこう呼ぶであろう。善良な普通の日本人に恐怖と衝撃を与える過激派組織、悪の秘密結社「ショッカー」と)はこの旗をこそやはり掲げるべきであっただろう。無限∞の意匠はちょっと意味をはかりかねる(永久革命、闘いは永遠に続くんだの意図はわかるが)。せっかくの戦闘性を、ブラックサンのタイトルを活かす方向であれして欲しかった。
「俺も受け継いでるんだよ。五十年前の俺が、ずっと見張ってる。
これが最後の戦いだ」
「負けた人から何を受け継ぐの?」
「敗北の、意味だ」
ビルゲニアが、くじらが、その言葉に身じろぎする。
音楽がちょっと、「これしかないの?」というくらいブラックサンのテーマが濫発されるのはいかがなものかと思った。やはりここぞというときのために温存して欲しかった。
作品のテーマから言うと森田童子や頭脳警察、ジャックスの挿入歌も十分アリだったんじゃないだろうか。
アマプラリンク
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