空でじっとしてるなんか。人体破砕弾。パワードスーツ。差別。スラムに蔓延する犯罪と暴力。「第九地区」の要素がそのまま健在なのでこれは監督の持ち味でありまた彼の心に引っかかり続けるテーマなのだろう。
前作はヨハネスブルクだったが今回の舞台はイスラエル占領地を思わせる。アラブ人を住民としては排除しながら単純労働力として身体検査、武装解除の上常時必要としている矛盾した、欺瞞的な体制。
スラムのテクスチャー、そのリアリティーが圧倒的。
のっぺりとした無機的なポリゴンの上にどれだけ上手にリアルなテクスチャを貼れるか、というのが3DCG表現の腕の見せ所かと思うのだが(業界的な常識を知らず想像で言ってます)、そういうテクニカルな映像表現の手法をこの監督は映画そのもの、お話しそのものにも援用、応用しているのではないかと想像する。
つまり、無機的に、高度に進歩しているはずの未来、2154年のLAに、現代そのままの貧困がテクスチャとしてリアルに貼られているのである。横溢する落書き。バラック。豚の荷車。上尾の自動車修理工場。
特撮、SF嗜好と社会的関心が一人(いちにん)の中に同在しているからこそ作りうるブロムカンプワールドであろう。表現とテーマにちぐはぐな乖離がないのだ。
「平等を強制する装置」にエリジウムがリブートするコペルニクス的転回が鮮やか。エンパイヤという抑圧装置をマルチチュードが簒奪する、あの本の鮮烈な結末を彷彿とさせる。映画化、と見ていいのかもしれない。
非人間的な機構の破砕で感情豊かな人間の世界を取り戻す、という、ぬるいディストピア恐怖症からブロムカンプは免れている。西川口のピンサロで働くコブ付きのホステスにしつこく言い寄るムショ帰りのトラッカーは人間的情感に溢れていた。「ええ匂いだなあ。おら、おら、あんだみでえなおんなと所帯持ぢだがったんだ」。人間に脅威となるのは情緒豊かな人間なのだ。
プロトコルが変わった瞬間、ロボ兵の銃口は貧民たちから、「市民に害をなす犯罪者」に向けられる。ロボに感情はないから。そこにこそわたしたちは希望を見いだすことができる。
少女の語る童話が素晴らしい。記憶の底にうっすらと、どこかで聴いたような、見たことのあるような……。
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