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オデッセイは傑作

 The Martian、観ました。



 プロットだけつなげたら深刻でありきたりな話になるはずなのにそうなっていないのが本作最大の魅力。主人公マークワトニーはできることを淡々とこなしていくことに忙しいので絶望したり悩んだりする暇がない。この楽天性、向日性をまたディスコナンバーが強力に支えている。
 おそらくリマスターされているに違いないスターマンの流れるシーケンスにそれは凝縮、結晶している。ワトニーのガッツが巨大組織NASAに、母船ヘリオスに、中国宇宙機関に、世界に感染していく。
 彼がボタニストであることも重要なキャラクターなんだよね。夏休みの宿題を8月31日までほったらかして徹夜で翌朝に仕上げてドヤ顔するヒーロー類型とワトニーは真逆の立ち位置にいる。彼は在庫を記帳し生産と消費の管理を厳密にする。思いつきと瞬発力、男度胸に頼った怠け者ではないのだ。

 ちっちゃい事務所の給湯室、と思われるところからカメラパンしてそのまま巨大スクリーンの管制室へ、もまさしくリドリーマジック。面目躍如。
 突如アジアが出現するのも「らしい」よね。
 フォーレターワーズをじかに見せないことでむしろ余計インパクト持たせた演出も秀逸。
「プロメテウス」の失態から見事に完全復活。
 当然色々端折ってる部分もあると思う。原作も読みたくなった。原作もよくできてるから映画も骨格のしっかりしたものになったんだと思う。

 気圧と重力描写、なにより冒頭嵐の打ち上げに疑問がなくはないが、それに倍するかたちで全体の考証がしっかりしているのだからそこはチャラにしちゃっていいんだと思う。重箱の隅つついて鬼の首取るかたちの批評よりも、公平な評価が大切だと思う。
 インターステラとか激賞してたひとはとりあえずこの快作の前に跪拝、反省してほしいと思う。あ、いや、反省しなくていい。いま更そんな後出しじゃんけんダメ。許さない。ああいうのほめた過去があるというだけでね、もう駄目。評価変えない。

 んでビニールシート。作品を貫く重要アイテムになってんだよね。テープによる補強、圧力隔壁化も伏線だったし。

 重力エンジンによる加速はアポロ13、宇宙服ごと突き刺さった金属棒を気合い入れて引き抜いたりガムテ貼ったりGで気絶したり回転重力ブロックを持つ母船がテサーを降ろしギリギリまで降下してカプセル拾ったりするのはもしかしたらガンダム、ゼータガンダムの影響? とか思う。
 ジャパニメーションの影響があるのだとしてしかし、「世界が俺の思い通りにならないのでみんなぶっ壊してやる」的なエモーションまでは模倣されなかったのはとてもうれしい。日本アニメの遺産がアメリカ的な偏向を受けて発展することを俺は歓迎したい。

 ライトスタッフ。ガンダムの大気圏突入。最終話。アポロ13。グラヴィティー。宇宙と生還劇は親和性が高く佳作、良作が多い。不思議とと言うべきか当然と言うべきか。
 冷静に考えれば俺たちみんなワトニーと同じなんだよね。ある日突然この広大な宇宙にひとり放り出された。そしてわけもわからぬままとりあえず死なないよう生きてる間は必死に生きてる。
 だから本作に引き込まれる。共感する。

[追記]
 どこがどうとちまちま検証するまでもなく、もうこれあれだ、「めぐりあい宇宙」の影響は明らかだよ。もっかい観てそう確信した。
「2015年、リドリースコットがめぐりあい宇宙のリメイクを撮る」って昔の俺とかひととかに教えてやっても誰も信用しないよね。




コメント

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