ずいぶんド直球なタイトルで、なおかつこのタイトル通りの内容。
岩波から先行して出た『原点』の続き、補遺でもある。
「自費出版でも出すつもりだった」という言通り、安彦氏自身が自分たちの青春にケリをつける、総括するただそのために作っている感じがむしろ好もしい。あの数年間の体験は何だったのか。なぜその数年間の体験が生涯を呪縛し続けているのか。「若いひとたちに先轍を踏ますまい」とかいう老婆心、老爺心は二の次。だからむしろ信用できる。プロパガンダではないのだ。わかりやすさなどすっ飛ばして、当事者が語りたいままに語っている。
それで興味を持つ若い読者がもしいるなら、彼は自分でその用語、事件、思想、闘争について積極的に調べる労を厭わないだろう。それだけの行動をひとに起こさせる、そういう魅力に満ちた証言の書になっている。
安彦良和氏がどれだけの重要人物か多言を要しないが、しかしおそらくアニメ、漫画ジャーナリズム界隈が触れない、触れようとしない氏の側面がある。氏が秘密にしているわけでもないのに。
そしてそれはたぶん日本アニメーション史を俯瞰する上で、欠落させるとむしろ不自然である事柄でもある。
「文化運動」の語を持ち出せばそれが戦後日本において政治と無関係ではなく、むしろ直結していたことを往時のひとは知っているはずだ。
宮崎、高畑。つまりジブリ組に対して本書で氏はかなり直截な事を言っている。横っ面を先に張ったのは宮崎の方だ。アニメーションに多少詳しいひとなら、宮崎が安彦氏に向けた軽侮と思しきものに思い当たるはずだ(軽侮どころか、宮崎はアニメ誌の対談企画を「そんなひと知らない」と一蹴までしている)。
そしてその軽侮はもちろんある種の羨望、嫉妬に裏打ちされている。単に技量上のそれにとどまらず、日共対反日共という党派的感情を丸出しにした。
「党の良い子」で居続けた優等生にとって、そこを飛び出たアウトロー、全共闘という鬼子に向ける感情は単なる批判にとどまるはずがない。
そして安彦氏の絵は、主人公の昏い目は、言語による思想の直截な表明以上に、「良い子(の欺瞞)」に向かって何事か突きつける衝迫力を持っている。
宮崎駿はアムロレイの昏い目に怯えたのだ。ブライトノア、富野喜幸がそうだったように。叛逆の怨念(ルサンチマン)を宿した、極左暴力集団トロツキストの昏い目に。
本の後半で、それだけ取り出せば随分保守化したなと思える安彦氏の政治的宣明が並ぶ(つまり陸奥宗光、福沢諭吉は氏の中にもいる)。
『王道の狗』『ジ・オリジン』等の仕事を読めば氏の真意、芯に未だ健在する理想主義、弘前大全学共闘会議の熱い魂は明らかなのだが。
だから多分安彦さんは誤解されやすい。そして氏は多分誤解を厭わない。「そう思われるならそれでいいよ」とどこかで何かを投げている。必敗者であることを観念している。
そしてそうだからこそ学友の終生変わらぬ信頼を勝ち得、この対談、出版企画を可能ならしめた。
安彦氏より右であろうと左であろうと、同志たちの姿勢は一点で一致している。「お前の好きなように作れよ」と。そしてみんな底抜けに仲がいい。
前作『原点』と併せ、最高に気持ちよく、羨望に耐えない青春の書となっている所以なのである。
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