では、宇宙は、生命によってすでにどれだけ変わってしまっているのだろう?どれほどのレベル、どれほどの深度で改変がなされているのだろう?圧倒的な恐怖の波が楊冬を襲った。すでに自分を救うのは無理だとわかっていたものの、楊冬は思考をそこで停止して、心を無にしようとつとめた。だが、新たに浮かんだ問いが、どうしても潜在意識から離れなかった。自然は、ほんとうに自然なのだろうか?
上巻の頭で提示されたヤンドンの問いは正鵠にこの世の真実を射抜いていたことが下巻で明かされる。秒速30万キロの光速。物理定数にはなんと「理由」があるのだ。
宇宙は無垢の自然ではなかった。
三体Ⅰを読んだとき「ああ、物理定数の話ね」と前半で思った俺はあながち間違ってなかった。後半それがミスリード、ひっかけ、マジックとわかる展開ではあったが、三部作を通して見るとヤンドンはソフォンマジック以上の深淵に気付いたからこそ恐怖したのだ。
文革の話で始まるⅠだったが、Ⅲ上巻巻末「雲天明との対話」もまた文革的、現代中国をいまだ支配するなにものか的であった。対話の途中で黄信号が灯る。黄信号をすっとばして赤が点き後部座席の水爆が起爆する場合もあるよと脅されている。
中国配信のNHK映像が突如ブラックアウトするあれを想起する。
もういませんよと「公式にはアナウンスされた」ソフォンをなおも警戒し何気ない日常女の子会話で誤魔化す程心アイエイエイ。監視社会下における庶民知そのものである。
家に着くまでが遠足であるように、三体は巻末解説を読み終えるまでが三体だ。Ⅲは大森望の訳者あとがきに先立って藤井太洋氏の解説もあり、これが劉慈欣のひととなりをおそろしくよく伝えるものになっている。
国家副主席の祝辞があるのでネクタイを締めてくるように、と招待状に書いてあったような大会で、半袖のデニムシャツとチノパン姿でふらりと歩いている男性を一目で劉慈欣だと気づけたのは、ヒューゴー賞をとってからの一年で劉慈欣をメディアで見ることが増えていたからだ。
カジュアルな格好で登壇した劉慈欣が浮いていたことは否めないし、主役を押し付けられて辟易しているようでもあったが、訥々と語られる言葉は次第に力を増していった。
作品を通じて伺われる作者像、その考え方は「敵をなめない方がいい」だし、楽天的な未来を語り民衆を鼓舞(焚きつける、とも言う)するタイプでも明らかにない。しかし、だからこそなのかもしれない。
頑張ったところで最後は死だ。すべての努力が水泡に帰して宇宙は二次元に圧潰していく。であればこそ。
徹底したニヒリズム、現世に対する底深い諦めがあるからこそ、劉慈欣個人はむしろ周囲をハラハラさせるほどに不敵、不遜なのではないか。
媚びへつらい我が身かわいさを徹底したところで、苛烈な支配はある日突然彼を身に覚えのない罪で農村に連れ去る。太陽にフォトイドを放つ。文革と現代中国史と三体の長大な宇宙叙事詩は教えてくれる。世界に対する忠誠は君の生残性をかけらも保証しないのだよ、と。
そして気付く。雲天明の3つの物語は2つのメタファーを駆使した暗号文であった。
三体という3つの物語が、どうしてそうでないはずがあろうか?
(感想3に続く)
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