スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

12月, 2022の投稿を表示しています

「ダンケルク」Dunkirk, 2017.

 今日時点のブルーレイ価格、973円。 アマプラで 観た。 大向うを狙ってないのが良かった。ノーランはこういう、史実ベースの話を淡々と撮る方が向いてるんじゃないか。ブラックホールとか時間旅行とかたいして知りもしない分野(関心が本当にあるのかも俺は疑っている)を一夜漬けの即席勉強で撮るのよかずっと良い。 ただいつものノーラン節はあって、時系列の混交。トロッコ問題。 叙述の意図的な前後はパルプフィクションの影響なのか? まあ不思議な効果はあって、「ああ、さっき空から眺め下ろした海上の光景はこういうことだったのか」という答え合わせ的な面白さはあった。 ただトロッコ問題への拘泥はどうなのか。それ必要? と思う。後味が悪くなるだけだ、と思う。偶然出会ったあの三人が生き延びる努力を協力しながら地味にやっていく、それだけでも十分にドラマであるのだからわざわざ何か(それも「これは哲学的な命題なのだよ」とノーランがドヤってる気味合いの)を足さなくてもいいのでは? と思った。 船内の温かい毛布、食事に背を向けて極力誰とも口をきかないようにしていた彼(を含む三人)と、海上で漁船に拾われ色々みっともない振る舞いに終始した彼とは「ダンケルクから逃げたい」という方向性においてまったく相同であるのに後者だけことさら卑怯で臆病で悪者に描いた(というかそういう人物を作った)のもなんだかなあと。嫌な後味が残る。必要なエピソードだったのかな? と思う。そういう史実がもしあったのだとしても。 なにかノーランの中にそういうもの、トロッコ状況への偏執、こだわり、こだわらざるを得ない個人的な情念、事情、理由、があるのだろうなあと思う。まあ彼が監督なんだから、そういうものを盛り込みたいのならそれはそれで仕方がない。 勿論あの燃料を失った戦闘機が独軍機を屠(ほふ)ってみんなを絶望から救い、諦めることなく着陸するエンディングは文句なくよかった。 頭を打って死んだ少年、彼の顔がとてもよかった。ああいう「普通の顔」をした役者さんがもっと増えるといいなと思った。 好きな監督ではない。しかし「絵」力、引き込まれる画面の迫力、その魅力は正直に認めざるを得ない。 ウィキペ

「TENET テネット」Tenet, 2020.

 ブルーレイ、本日価格で973円。世上のウケは芳しくなかったのかもしれない。 アマプラで観た 。 繰り返し観るとどういう話なのかよりわかるとは思うんだけど、まああんまそういう気になんないね。時間逆行というテーマをかなり無理くりに映像化してるんで、疑問点とかの解消にはたぶん至らない。矛盾、不整合は承知の上での企画だろうから。 その設(しつら)えの上に走ってる人物たちの行動、映像があくまでこの映画の肝(きも)だろう。そういう意味では飽かず観ることができた。WW84とはえらい違いだ。 キャサリン(エリザベスデビッキ)がなんといっても素晴らしかったね。俺の好み(長身美女)でもあるし。その魅力をコスプレショーも混じえて描き尽くしたことについてはノーランを評価したい。好きな監督ではないが。 誰を殺したいって夫よ夫! という望みをきちんと叶える映像体験で世の奥さんたちも大いに溜飲を下げたことであろう。 「主人公」はいつの時点で時間逆行施設の存在を識知したのか。なんだかいつの間にかそういう荒唐無稽を受け入れいつの間にか時間対応軍隊が出現し。なんだかそこらへんが不分明であったが見返して確認すんのは面倒だな。 ウィキペ
 

「ワンダーウーマン 1984」Wonder Woman 1984, 2020.

ブルーレイ、本日価格960円w まあそうなるよね。   アマプラで 観た。 いやー、なんかひどいね。 これもあれなんかな、出資サイドからの要請があったのかな。長くしろ、と。二時間半は要らないだろ。午後ロー尺(1時間半)に編集した方がむしろ面白くなるだろ。 無能なひとの仕事をずっと見させられてる感じね。一秒でできることをわざわざ遠回りに5分10分かけるひと。 この考古学者はダサくてモテなくて友達がいません、っていうのはもう登場30秒で十分わかったわけ。でもそれをなおも30分説明し続ける。クドい。お婆さんの長話か。 んで、もういちいち列挙することはしないけれども、矛盾やら不統一やらが甚だしいのね。謎の石、勝手に持ち出したよね? 同意の上貸したシーンはなかったよね? 金のアーマー、家に一度立ち寄ったの? 1984年のオフィスにパーソナルコンピューターは普及してないよね?(アップルのプロトタイプとかそういう話はなしね) プログラムを書き換えて乗っ取る? ブラウン管のテレビ受像機にプログラムなんか走ってねえよ。 頭がQ界隈で「世界緊急放送」なる与太(一度も行われたためしがない)がずいぶん流行ったけど、元ネタこれでしょ。陰謀論界隈でいちばんムカつくのがこれね。自前の妄想ならまだ「君はSF作家になれる!」と感嘆することもあろう。あいつら、必ず、必ず、百%、「安手の映画で見たネタをそのまま、修正もなんもなしに」だから腹立つんだよ。知能どころか想像力創造力も欠如。なんもないひとたち。 まあそういうののエサにしかならんバカバカしい映画でしたね。 1984と銘打ってるのにそこの描写に重きを置いてる感もあんまないんだよね。じゃあなぜ? という。 あの姐ちゃんが魔法の力で真逆に変わる! って話だろうになぜかブサイクなまま。イメチェンした服装も有り体に言ってダサい。1984年なんか舞台にすっからだよ。完全に裏目。 無駄に長い花火。「待って、いい考えがある!」「上から見下ろすのね! あなた天才だわ!」バカですかと。いつまでそこにいるんだ。 上から見下ろす花火、雲がぼんやり光るだけだし。でもなんかウットリ色惚けてるダイアナさん。 気密服もなしにジェット機乗るんですか。燃料どこまでもつんですか。 なんで操縦できるんですか。 今生の別れ、のカメラワークというか演出基本というかそういうのがダメダメ
 

「狼よさらば」Death Wish, 1974.

アマプラ リンク  午後ローの録画をいま頃観た。 先日観た ジョディーの「ブレイブ ワン」 という映画とまったくプロットが同じだった。結末に至るまで。つまりこっちが先なのだ。 そしてブレイブワンがそうであるように、これも当然バットマンの誕生、スーパーヒーロー物の第一回となっている。ただしきな臭さが遥かに濃い。銃、自警団の礼賛にとどまらず法、警察の不正まで容認するところまで行っている。 途中まで、就中(なかんずく)警察署のシーン(名探偵登場。会議室でなく雑然とした執務室で服装、人種、性別の混交した署員が立錐するその感じがニューヨークっぽい。これ、ダイハード3に影響してんじゃないか)などとてもよかった。のが、その直後からなんだか急激におかしくなってくる。令状もとらず無断で留守宅に侵入捜査(この時点で押収物が証拠能力を失うのはいくらなんでもアメリカだって一緒でしょ?)。検事は「まあこの件はなしにしようや。その方が犯罪が減っていい」言い出す。あげく「拳銃は捨てとくからお前よそ行けや。それでチャラにしてやる」。西部劇か! めちゃくちゃだよ。デュープロセス完全無視のイリーガル対処。 「狼よさらば」「え?」「考えろ」。考えたけどわかんねえよ。しかもなんで最後それを警官が知ってたの? おかしくね? 法に拠らず悪を裁く! というダーティーハリーの先駆で観客は喝采しただろうけど、当時にあっても問題作とされただろうことは容易に想像できる(追記: ダーティーハリーは1971年。先駆ではなく影響下にある)。 ブロンソンの映画を実は初めて観たけど、前半の静かな知識人役などむしろハマっている。なるほどこういう役者さんなんだ。 ウィキペ
 
 

「ドライブ・マイ・カー」Drive My Car, 2021.

  アマプラのインターナショナル版 で観た(そうでない版との違いをいま知らない)。 アカデミー賞を取るような格調高い三時間の映画、ということで相当の退屈を覚悟して観始めたがそれは全くの予断と偏見、杞憂であった。まずもって面白いし、また「賞を獲って当然」とも思った。氾濫する愚にもつかない暇つぶし映画ではまったくない。村上春樹の原作が良いのだろうし、映画化にあたっての演出もおそらく素晴らしいのだ。 開始40分後にタイトルが出る。それは流行りのハッタリではない。ここまでは序章、物語はここから始まるのだと明確に示した正しい位置のそれである。 楽屋に現れた岡田将生がまったくもっていけすかない若いイケメンを見事に体現しているから観る者みんなその後の展開が見えている。ああ、こういうドロドロ愛憎劇、愛の修羅場をこれから三時間延々見せられるのねとうんざりしかけたところでぷっつりと物語は転調する。 そして登場するハードボイルドヒーロー。タフガイ。フィリップマーロウ。瀬戸内の古民家で優雅にMBAを叩く舞台演出家という、ある種この世の成功者である彼を一瞬で腑抜けた文弱に見せてしまう、それだけの修羅をまとったそのドライバーは23の女の子。ライターをいなせに受け取り紫煙を燻(くゆ)らす。 チェーホフの本読みで役者に要求されるメソッドがそのまま劇中の渡利(わたり)みさきに適用され効果を上げている。彼女が感情豊かに、慟哭しながら己れの不幸をかこってしまったらこの映画は台無しである。母親に心を扼殺され表情と感情を喪くした少女の佇(たたず)まいを三浦透子は完璧に演じている(俺は「流星ひとつ」を思い出す。旅芸人の家に生まれ暴力混じりの強制で歌唄いロボットにさせられた人生。藤圭子が沢木耕太郎に語った半生は渡利みさきのそれに酷似している)。 劇中劇のチェーホフが手話を含む多国籍多言語劇であることも無意味ではない。これをポリコレ表現と見て揶揄する者もいるだろう。「こういうんじゃなくて、もっと普通にやればいいじゃん」。であれば、そのポリコレとやらのおかげで「表現」は行き止まりの閉塞から光明を見い出したというべきであろう。普通という篩(ふるい)が取りこぼしてきた可能性。豊穣。沃野は無限に拡がっている。いままで見て見ぬふりをしてきただけなのだ。 役者三浦透子の頬にもともと傷があるものか俺はいま知らない。しかしも

「ゴッドファーザー」The Godfather, 1972.

  アマプラの吹替版 で観た。 2,3,1の順番で観てしまったけど、やっぱ順番通りに観るべきだったねこれは。出来、迫力はこの最初のがダントツ。2は1のセルフコピーだし3は要らんつけたりだったし。1を観た上でわかるシーンが2,3にはたくさんある。ああ、このエピソードに対応してんのね、とかが。 本作の白眉はなんといってもマイケルの敵殺し、その打ち合わせから実行に至るまでのシークエンスだろう。妙に生々しさを感じるのはもしかしてベースに現実の事件があるから? 観客は作戦がうまくいくのかマイケル目線で一緒に没入する。 シチリアに逃亡っていくらなんでもそりゃ簡単にバレるだろうw しかもなんだよ一目惚れってw いや、逃亡先で現地の女とよろしく、ってのはヤクザとして不思議じゃないけど付き合ってもいないのにいきなり結婚はねえだろう。なんだか頭のネジが外れてる。ダイアンキートンのことはどうでもいいわけ? で、全然無口だった女が結婚した途端調子乗りになってそのまま爆殺! そういう犠牲要員としてだけの登場があからさま過ぎて「このエピソード要るのか?」と思った。 で戻ってまた教職のキートンと復縁しようてなにそれ。一旦捨てたくせに。他の女と結婚したくせに。女世の中よおけおるんやから他の女探せや。カタギの女をヤクザ稼業に巻き込んで以降このひとはずっと彼女を苛(さいな)み続けることになる。 ロバートデュバル扮するトムヘイゲンの存在感がやはり素晴らしい。主役級と言ってもいいのではないか。その不在がやはり3を寂しくしている。描くべきことが何もないのだ。 ウィキペ の記述が滅法面白い。当時落ち目で役をもらうべく自分を安売りしたマーロンブランド。二時間に仕上がったフィルムをパラマウントの要求で水増しせざるをえなかったコッポラ。なるほど、それで余計と思われるシーンがままあるのだなと納得。

あしたのジョー2最終4話を観る

 ダブルダイナマイトさんの「あしたのジョー2全話振り返り解説」がやたらめったら面白かったので、 アマプラの最終4話 だけとりあえず観た。 終盤はほぼ劇場版と被っていることもあって杉野昭夫氏の全作画が素晴らしい。完璧に近いリマスターの威力も相俟っていまでも充分見れるクオリティーだ。 矢吹丈の性欲欠損について考えてしまう。恋愛を解しない朴念仁なのはまあいいとして、彼に性衝動がまったく見られない不自然が気にはなっていた。 これはたぶん物語上の要請、必然があったような気がする。高森朝雄が自覚的であったかはともかく。 施設を脱走した天涯孤独の浮浪児で勿論生存の要請として当然に盗癖はあり暴力衝動も過多である。その彼に思春期通常男子の性欲も許してしまうとたぶん矢吹丈の物語は拳闘家ではなく連続婦女暴行絞殺魔。永山則夫の生涯になってしまう。 丹下段平と共にリングを目指すためには、どうしても彼を性欲欠如の一種の不具、畸形的青年にする必要があったのではないか。 その結果あの白木葉子とのある種ストイシズムの極限とも言える名シーンが生まれたわけだが、それはまた同時に「こんな奴は存在しないし、いたとしても長くは生きられない」ことの証左でもある。 パンチドランカーで命を縮めた? いやたぶん、丹下段平に出会えなければ、ジョーの命はもっと短かったのではないか。ボクシングに出会うことで、むしろジョーは長生きできたのだ。そんな気がする。 白木葉子の顔がいちいち気になってしまった。ひたいが妙に狭くおもなが。そしてなかんずく髪型。ああいうヘアスタイル(オールバック長髪)はちょっと物理的に不可能ではないか? 昔の時代劇でくさり鎌とか振り回すなんたら一刀斎的な、はげ長的な変さがある。 ちばてつやも高森朝雄も杉野昭夫も出崎統も、女性の服飾には不案内だったのだろう。まあ当時の少年誌なりアニメーションの水準から言ってそういう時代だったろうし。 しかしダブルダイナマイト諸氏が語るように女性心理の機微の描写は抜群。漫画のアニメ化にとどまらない凄絶な深みに到達していた。 てらさわ氏が言ったように、「ちゃらちゃら、ぜんぶ一旦御破算! 結婚とかもう全部なしにしてさ、みんなでなかよくやろうよ!」。ひたむきでもなんでもないモラトリアムな、面倒は全部先延ばしにした、そういうジョーの、のりちゃんの、白木葉子の物語もあり得たのではな