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「ドライブ・マイ・カー」Drive My Car, 2021.

 アマプラのインターナショナル版で観た(そうでない版との違いをいま知らない)。

アカデミー賞を取るような格調高い三時間の映画、ということで相当の退屈を覚悟して観始めたがそれは全くの予断と偏見、杞憂であった。まずもって面白いし、また「賞を獲って当然」とも思った。氾濫する愚にもつかない暇つぶし映画ではまったくない。村上春樹の原作が良いのだろうし、映画化にあたっての演出もおそらく素晴らしいのだ。

開始40分後にタイトルが出る。それは流行りのハッタリではない。ここまでは序章、物語はここから始まるのだと明確に示した正しい位置のそれである。

楽屋に現れた岡田将生がまったくもっていけすかない若いイケメンを見事に体現しているから観る者みんなその後の展開が見えている。ああ、こういうドロドロ愛憎劇、愛の修羅場をこれから三時間延々見せられるのねとうんざりしかけたところでぷっつりと物語は転調する。

そして登場するハードボイルドヒーロー。タフガイ。フィリップマーロウ。瀬戸内の古民家で優雅にMBAを叩く舞台演出家という、ある種この世の成功者である彼を一瞬で腑抜けた文弱に見せてしまう、それだけの修羅をまとったそのドライバーは23の女の子。ライターをいなせに受け取り紫煙を燻(くゆ)らす。

チェーホフの本読みで役者に要求されるメソッドがそのまま劇中の渡利(わたり)みさきに適用され効果を上げている。彼女が感情豊かに、慟哭しながら己れの不幸をかこってしまったらこの映画は台無しである。母親に心を扼殺され表情と感情を喪くした少女の佇(たたず)まいを三浦透子は完璧に演じている(俺は「流星ひとつ」を思い出す。旅芸人の家に生まれ暴力混じりの強制で歌唄いロボットにさせられた人生。藤圭子が沢木耕太郎に語った半生は渡利みさきのそれに酷似している)。

劇中劇のチェーホフが手話を含む多国籍多言語劇であることも無意味ではない。これをポリコレ表現と見て揶揄する者もいるだろう。「こういうんじゃなくて、もっと普通にやればいいじゃん」。であれば、そのポリコレとやらのおかげで「表現」は行き止まりの閉塞から光明を見い出したというべきであろう。普通という篩(ふるい)が取りこぼしてきた可能性。豊穣。沃野は無限に拡がっている。いままで見て見ぬふりをしてきただけなのだ。

役者三浦透子の頬にもともと傷があるものか俺はいま知らない。しかしもしそうだとすれば、映画はその配役において制約ではなくむしろ自由度を増したと言える。

「いまそれを言うのですか」。繰り返す家福(かふく)の言葉にしかし主催者、コーディネイターのふたりは少しも動じない。譲らない。好人物と思われたふたりがここで峻厳に冷たいのがむしろ素晴らしくいい。彼らは主催者で演劇祭の成功に責任があるのだ。かつて俳優の自動車事故で実際苦い思いもしている。経験し学習したおとななのだ。

「どこか、落ち着いて考えられる場所。上十二滝村(かみじゅうにたきむら)。僕に見せる気あるか。君の育った場所」。他人の凄惨な人生に触れることで自分を取り戻したいという知識人らしい甘っちょろさをしかしみさきは嘲笑(わら)わない。言われたとおりに北を目指す。それはドライバーがマスターの指示に従っただけにも見えるし、家福にそれが必要だと彼女も思うところがあったからかもしれない。

村上春樹版グラントリノ、と言いたくなるエンディング。名車なのだろうが俺はいまその車種を知らない。渡利みさきはその国で、かすかに微笑みながら彼の愛車を転がしている。

家福はあの暗くなった瞬間にチェホフと刺し違えて舞台で絶命したのだろう。しかしそれはまさに舞台でイユナが語った「生きるということ」の具現だ。みんなのために仕事をすること。なすべきことをなし、そしてときが来たら、それを受け入れること。

村上春樹作品を俺は「ノルウェイの森」しか読んでいないが、骨子において共通するものを感じた。精神を病む彼女、その彼女を救えなかった僕、そして、救えなかった者同士が行う私製のお弔い。

俺はいま原作小説もとても読みたくなっている。


2022/12/09追記: ウィキペに拠るとコロナ禍が影響して韓国ロケが不能になった、その上での強いられた広島ロケだという。しかし、その不如意に負けなかった(どころかあの素晴らしいシーンが生まれた)ことは作品が雄弁に示しているし、また仮に当初予定通りの撮影となったとしてもやはり傑作になっただろうことは間違いない。濱口監督にはそれだけの、偶然に左右されない実力がある。俺はそう思う。

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