鴎外が自分の人生から「性」のタグが付く事象を引っ張りだして編んだアンソロジー。
羞恥を顧みず勇気を持ってすべてを告白した、というような内容のものを予期していたのだがその予想は外れた。鴎外自身は至って性的に恬淡、草食男子そのものだったからである。その彼を取り巻く獣的に性的であった世間一般との齟齬、孤立感の記録になっている。
読んでいてちんぽが勃つような箇所は一箇所もない。オナニーした、遊郭に行った、という散文的事実が記されるのみで、性行為の具体描写は一切ない。しかし明治42年、昴誌上に発表と同時に雑誌は発禁。社会の支配層となっていくエリート学生一般が寄宿舎時代にどういう性生活を送っているか、その実態を描いてしまったこと、公然の秘密ではあるが人口に膾炙することなかった支配階級の恥、その暴露が、明治支配層の逆鱗に触れてしまったためではないか。などと思ったりするが、たぶんそれは深読みに過ぎるのだろう。学識も何もない、特に何も考えてはいない検閲官から当時の大衆向け猥褻本とひとしなみ一緒にされて、ただ機械的に市場から葬られただけであるのが実際だろう。内容の吟味、精査が深く行われることもなく。
語学学校なり予備門なりの寄宿舎で「硬派」と自らを分類する凶暴な男が短躯、柔弱な男子を狙い撃ちに行う性的暴力。それは今日の目からすれば紛れもなくいじめであり強姦であり犯罪を構成するものであるが、主人公が父にその実態を話しても父は眉一つ動かさず言い放つだけである。「ま、そういうところだ。気をつけるといい」。この異常な、弱肉強食の暴力世界がおそらくは江戸期からの、青年教育機関における公許の習慣であったろうことを伺わせる。
弱いものは姦られ、喰われ、強いものが快楽をむさぼる。姦られたくなければ、喰われたくなければ、奪われたくなければ、頑張って強くなることだ。そういう常識を涵養することもまた武人、日本男子の教育だったのだろう。
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