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悲しき獣 (The Yellow Sea 黄海)



んー。面白かった。つーか凄かった。
評判通りミョン社長だよね。フィーチャリングミョン社長だよね。
強いとか獰猛とか、それだけじゃないんだ。あのざっくばらんな気さくな感じ。うん。こういうひといるよね、こういう社長のとこで単発のバイトしたことあるよね、バイトのあと飯食わせてくれたよね、な感じ。人望、人徳、求心力。
それが豹変、とかじゃなくて、あのいつもどおりなまんまで斧と骨振り回すからアタマくらくらすんだ。日常と暴力の自他境界線がない。シンジ君タイプじゃない。生活に無理がない。逆上という瞬間がない。常に自然体。
主人公とミョン社長、映画冒頭で既に会ってるんだよね。「なんだおめえ? 変な野郎だな」って。この瞬間にもう「てめえ俺を誰だと思ってやがる」とかって凄まない、虚勢を張らないミョン社長のキャラクターも、そして、「この若造ちょっと変わってるな。ヤクザにも見えねえし。といって普通でもねえし」と相手の非凡を見抜いている社長の眼力も描かれている。
完全無欠に見えた社長が、実はここでヘタを打っている。そのように自らのすぐれた眼力で非凡を見抜きながら、「ま、とはいえ、どこにでもいるどっかのクズにはちげえねえだろ」といつもどおりの使い捨てコースに乗せてしまった。
ミョン社長、ここで裏切らずちゃんと約束も報酬も履行していれば本物の大人物になれたのに。
まあそしたら、そんなことしたら、アクション映画成立しませんが。

貧困と身分の不安定、その隙に暴力と非合法が根を張る。弱みと足元をみて犯罪に使駆される。そういう構造を告発するお話の土台がまずあって、しかし監督はその「正しさ」に寄っかからない。「これは岩波ホールで上映される政治的に正しい映画なんだから正座して見なさい。観たあとは面白かったって言いなさい」と強要する甘えがない。
スプラッタ描写は俺全然苦手だけど、省略法も駆使した全力疾走の展開は文句なしのエンタテイメントだった。韓国映画のレベル、めちゃめちゃ高いんじゃないか。シュリよりも全然進化してる。

あの教授の奥さん、斉藤由貴似でめちゃくちゃかわいかったなー。この美貌、実は伏線にもなってる。
最後のほう、結構複雑化してきて俺ついていけなくなった、話が把握できなくなったんだけど、そこはこのDVD素晴らしい。「人物相関図」が特典としてあり、これ見たら一目瞭然。「ああそういうことか」とお話の、物語の構造が馬鹿にもよおわかったのでした。
イングロリアスバスターズとおなじなわけです。偶然、まったく偶然、おんなじ目的のおんなじ暗殺計画が相互に知らぬまま同時進行してたという。
やっぱ最後の二人、いちばんのクロだったわけですね。雰囲気的にそうかな、とは思ったんですが。
んで主人公、なんで最後の目的果たさないかって言えば、やっぱあまりのことに田舎出の純朴な青年としては愕然としちゃったんでしょうね。こんな美しい人が、こんな恐ろしいことを、と。その外面と内面のあまりのギャップに。都会では常識の範疇に属する、そういう驚愕の事実に。人間というものの正体に。
んでもうなんか、どうでもよくなっちゃった。復讐する気も失せてしまった。疲れた。
んで思った。とりあえず、帰ろう。家に。
ミョン社長の追撃すら逃れた主人公、あの美しさの下に潜む残忍には完敗を喫したわけです。

ラストシーンは救いにも見えるし、とどめを刺す救いのなさとも見える。送金はともかく連絡さえあれば、主人公、こんなことせずに済んだのに。
家で待つ女の子にとってはまあ、ハッピーエンドでよかったけど。

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