千と千尋、ちびちび観てようやっと観終わった。結構なかなか面白かった。途中のいろいろで拒否反応過大はあかんね。反省。
背景美術が淡い色で全篇素晴らしいが中道電車のシーンはとりわけクライマックスにふさわしい凄みを感じた。宮崎版ねじ式。
産廃が都市鉱山で金を内包、なんて社会風刺のネタを物語の流れに無理なく取り込んである手つき、素直に上手いと思った。なおかつあれがハクの正体、その伏線にもなっている。
ハクは第二次性徴を遂げない永遠の少年でなければならず、千尋とおでこを撫で合わすのが最大の愛情表現。男の生臭い部分は全部腐り神とカオナシが引き受ける。宮崎アニメのいつもの作劇法だが、その真意、理由がほんとに那辺にあるのか余人には窺い知れない。性の欲望を率直に表現するよりもこのピューリタン的禁忌のほうが遥かに「抑圧、隠蔽された激しい性欲」を感じさせる。
ハクが性欲から遠い分カオナシは欲望で膨満しその姿はまんまホーデンから屹立した巨大なペニスになる。
あ! と、いうことは? ゆばあばとゼニーバが「もともとはひとり」であるのと同様、ハクとカオナシも実は?
時々記憶がない事。八つ裂きになるかもしれないのに「大丈夫」と言い切ったこと。蠱毒や変身のせいばかりでなく、カオナシが実はハクの分身であることの傍証ではないだろうか。カオナシの頭部には少年のもの? と思わせるざんばら髪も生えている。ハクは湯治場を離れゼニーバのもとで今後は生きるのだろうか? 琥珀川はもう暗渠なのだから、コハクヌシに帰るべき場所はない。
少女の歓心を買う手段としてごちそうを山のように振る舞うという行動形態がダイスもカオナシも同じなのが面白い。山荘で宮崎翁も同じ振る舞いをするのだらうか。そして少女たちからドン引きされ激昂し暴行に及ぶのだらうか。
魔法使いの弟子、水没した世界など、次作以降のモチーフが既に投入されているのも興味深い。
あれは同じミヤザキ姓を持つ勤への魂鎮めなのだろうか。カオナシは就職によってようやく心の安寧、生活の安定を得る。ああよかったねえと素直に思った。異論のある描写かもしれないが、現実的な落とし所だと思う。特にやることもなくなおかつ金を無尽蔵に使えるという立場は精神を失調させ少女連続なんとかをしでかしかねない。
就職は相手もあることだから自分の意思だけで叶うことではない。だが、賃労働には就けずとも、自身で工夫して何事か生業をつくることはできよう。……いや、まあ、簡単じゃないわな。
「甘ったれるな。つべこべ言わず働け。働けないなら死ね」と奴隷労働か死かの選択しかさせない社会はそれ相応のあと始末をしなければならなくなるが、それは社会が自分でそう選んだのだからもうどうしようもないではないか。
「働かざるもの食うべからず」。コミュニスト宮崎駿のそれと同じ主張をファシストがアウシュビッツの門に掲げる。そもそもそれは奴隷使用者の脅迫であるから。
しかし作品に庵野秀明同様「一試合完全燃焼」の姿勢で臨み毎回真っ白に燃え尽きる宮崎の姿勢は、これはもう有無を言わせずひとを脱帽させるものだ。作品は彼の労働に見合う凄みをまとう。彼が彼の倫理を自身に強いる限り、それは芸術家の無害な狂信である。
でもその狂信を俺たち凡夫に強いるのは迷惑以外の何物でもない。
(2013年1月1日追記:千と千尋については次の記事が拙文より秀逸。安直な印象批評より事情通による製作裏話、周辺情報のほうが作品理解に資するの好例。
http://d.hatena.ne.jp/type-r/20120706
まさかねえ。「ジブリ帝国崩壊の序曲」が真相だったとは。)
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