今日も暑いと書くのも暑い。
なんか内村航平よおやったらしい。
投稿なりエロ同人誌なりの体裁をとっているけれど、三峯徹の造作物はたぶん「三峯徹というジャンルの芸術」なのだろうと思う。
たぶん漫画ですらない。漫画の枠におさまっていない。徹底的に無内容でありながらなにかが過剰である。
心を病んだひとの奇怪な創作であればそれは「アウトサイダーアート」という確立したジャンルに落としこんでひとは安心立命を得ることができる。ああ、いろいろたいへんだから、こんなんなっちゃったんだね。たいへんだね。面白いね。と。
三峯徹の場合たぶん彼は心の治療中でもなく、ひとりの凡庸な生活者なのだと思う。そういうひとがおよそ他人に了解不能なアートを日夜産出している。これは奇怪である。奇怪なひとの奇怪な行動よりもはるかに奇怪である。
なぜそんなことをするのかがまるでわからないからである。狂っているからという理由すら立たないのだ。
萌え絵的フォーマットのハダカの女性の絵がある。そこに一つの意味を持つ文章が添えられている。それが複数枚描かれてストーリーらしきものも構築されている。これらすべての総合は通常「漫画」という表現形式としてその意味を豊饒化する。ところが三峯徹の労働は統合によってむしろ意味を空無化し、構成物各個のゲシュタルトまでも崩壊せしめる。わたしたちは「結局これはなんなのか」と虚空に向かって叫ぶこととなる。
それはたぶんディングアンジッヒ、「物自体」に直面させられたわたしたちの不安である。存在そのものには、おそらく意味も理由もないからである。
それはたぶんディングアンジッヒ、「物自体」に直面させられたわたしたちの不安である。存在そのものには、おそらく意味も理由もないからである。
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