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11月, 2012の投稿を表示しています

孤独のグルメ

http://www.tv-tokyo.co.jp/kodokunogurume2/  録画してあったのを初めて観た。面白い面白い、すっげー面白い。  主役の人、顔も表情も声も喋り方も赤瀬川原平さんな感じで、まさに路上観察学会つながりで凄くいい。  外回りの営業社員(※↓)が外食するだけ、メシ食ってるだけのドラマがこんなに面白い事態について、全ドラマ関係者は真摯に反省すべきであろう。恋だ愛だ、「あたし、マサトのことほんとに、ほんとに!」って豪雨の中絶叫されても「どうでもいいよ」とチャンネル変えられちゃう事態について、真剣に考えるべきであろう。  久住昌之バンドの音楽も素晴らしい。今日観た「両国」の、お相撲さんモチーフの楽曲、すごくいい。  ちゃんこの大内も、あの甘味屋さんも、両方行きたくなった。いや、行くだろう。  原作も早速に読みたくなった。結局「夜行」(『かっこいいスキヤキ』所収)とやってること(食事の実況中継)はおんなじなんだけど、それがまたすごいよなあ。おんなじパターンでいまに至るまで。それがひとを飽かせないのだから。面白いのだから。 ※ 追記。これは俺の誤解で、彼は個人の輸入業者なのでした。

クイックニングの感想 3

 アスカの言う通り、天地真理イラストリアスが確かにウザい。金曜ロードショー先行プレビュー版のほうが良かった。 「わたし昭和の歌好きなんです」と不思議ちゃんぶりをアピールして大人男子に媚びる厨二女子は中年男性の俺から見てもかなりに腹立たしい。いろいろとイラッと来る。  もちろん女子に調子乗らせといてあとで酷い目に遭わせるというのはエヴァのSMフォーマットなので、是非ともこっぴどく傷めつけて欲しいところである。 (追記:イラストリアスが懐古厨であるのは実はどうもちゃんと伏線らしいということであります。つまり、懐古厨ではない。懐古してるわけではない。)  6分38秒のプレビューに既にナディアの楽曲は使われていた。今日気づいた。高度な伏線。  さっきまで敵味方で殺し合ってたのにプラグから出た途端なんか「立つくらいできるでしょ!? さ、行くわよ」とみんな一緒に歩き始めるのがなんかおかしい。面白い。 「あたしのことは助けてくんないのね」。マツシロの対応がレイの時と違うことを根に持っているようだ。 エヴァの特徴である無意味なペダンティズムが本作においては抑えられていたこと、俺は好感を持った。冬月は明解な言葉で諸々の事情をシンジと観客に解説している。けして説明臭くはない。コールドスリープなりなんなりで事情を知らない者に対する、虚仮威しも誤魔化しもない、わかりやすさを旨とした簡潔な説明。これは従来のハッタリエヴァにはなかった演出で、つまりもうエヴァにハッタリは必要ないという作り手の自信のあらわれとも言えるのではないだろうか。 ネルフ施設の維持に人手が要るはず、おかしい、という批判はさてどうなんだろう。かつて栄華を誇った国連特務施設は見事に寂れているし、また、二千何十年だかの科学技術力は無人の基幹機能維持を可能にしている、とか解釈してやってもいいのじゃないか。みんなエヴァに厳しすぎだよ。 それはもちろん実はみなのエヴァへの愛、期待、その証しでもある。 廃墟化した施設のヴォールトばたに建つあの乞食小屋。あの鮮烈なヴィジュアルにみんな唸らないのだろうか? あれですべてを許す気になれないのだろうか? そしてなぜか律儀に公団の表札をひっぺがしてそこにまた表札として置いているブラック綾波レイ。もう悲惨なんだかギャグなんだかわけわからない感で興奮したりしないのだろうか
 日本の“進歩的文化人”たちがこぞって反安保闘争に参加するなか、宮本は明らかに彼らと一線を画していた。「思想の科学」(昭和三十九年五月号)が学生運動についてのアンケートをとったとき、宮本は、私は抵抗のエネルギーを否定するものではない、と前置きして、次のように述べている。 〈いろいろの闘争の行なわれた土地を時たま訪れることがあるが、そこに残された傷跡は深い。そうした事に対しての責任をとろうとする者は少ない。…〉 前出の網野善彦は、温和な宮本が、領主による農奴支配に力点を置いて日本の中世、近世をとらえようとする石母田正の史観をこっぴどく批判しているのを聞いて、ひどく驚かされたことがあった。宮本はあくまで反体制の立脚点に立ってはいたが、それを一つのイデオロギーや党派性に収斂させようとする動きには敢然と歯向かった。 『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』 佐野眞一、一九九六年。

クイックニングの感想 2

「次回予告」で語られた内容全部すっ飛ばし演出が凄い。さすが。  セカンドインパクト後の世界すら「核戦争後のディストピアに成立した悪夢のような臨戦国家体制」だったのに、今回はその度合いが更に進行。崩壊した世界の人類最終戦争。イアンギランバンドのジャケット感。  ミサトからはエリート公務員の驕り、調子乗りの空気も失せ、情愛のかけらもない司令官ぶりのみが一層突出、固着。  アーガマならぬブッダ。宗教イクスプロイテーションムービーというのは一ジャンルとして定着しておりますが、まさかその流行りをエヴァが取り込むとは。 (追記:これ俺の聴き間違い、勘違いで、ブッダならぬ「ブンダー」が正解のようです。たぶんドイツ語の wunder、英語の wonder。驚異。奇跡。  組織名ヴィレ Wille と合わせれば意思の奇跡、となりましょうか。)  たぶん同じキングレコードで音源的には問題ないのでしょう。あったとしてもおとなの手続きを踏んで使えるようにするでしょう。感無量だったな。大笑いで感激で感涙。  みんな「そうか、それで再放送」って思っただろう。偶然だと思うけど。来月アタマあたりかな。  まさか超弩級巨大戦艦で来るとは。自分の得意な持ちネタで来るとは。当然かつ意外な大ネタ。  カオルくん回だから当然今回は特定女子向けなのだが、まさかの展開に少年のメカ魂も十分に満たされたはずである。  永遠の14歳。「エヴァの呪い」は作中の彼らのみならず、14年たってもいまだエヴァに呪縛されている俺たちの有りようを指していることはいうまでもない。  さて、ここで面白いのが、その自覚があるかないかによって生まれる作品評価の差である。  この映画のシンジくんに「ヘタレ」の悪罵を投げつける向きもいるらしい。  ぼくちんおとなだもん、シンジってヘタレ、情けねー奴、という評価を下せるのは、年齢のせいかあるいは境遇の許すゆえか、自身の万能感を疑う契機を持たずいまに至る幸福な御仁と推察できる。そして、「シンジは俺だ。俺自身の姿だ。いつまでたっても何をやっても子どものまま。よかれと思ってやったことも全部裏目に出て。やってきたことは全部無駄。なにひとつ成し遂げることができなかった」と苦い無力感でシンジの境遇に共感できるのは、おそらく現実に直面し、現実に傷つく契機を一

映画に付随する2、3の事柄

錦糸町のトーホーシネマズ行ったんだけどさ。 ぷらっと行って「エヴァ見れます?」って聞いたら席とれてさ。 ああ良かったと思ってその席行ってみたらさ。 俺の席の両側がデブでさ。両方共メガサイズのポップコーンとコーラ、へんてこなトレーに載っけててさ。 デブ女もデブ男もポリポリもぐもぐポリポリもぐもぐ。 「巨神兵東京に~おらさも一旗上げっぺや」の最中もステレオで、俺の視野の両端で手が忙しくデブの口にものを運んでるわけさ。 ステレオで臭いわけさ。バターの濃厚な匂いがさ。 デブ男はトレーナーでさ。「部屋着のまま上着引っ掛けて来ました」状態でさ。でも鼻の曲がる異臭はしなかったから助かったけどさ。 何しに来たんだ? 食事に来たのか? 腹減ってんのか? なんですかあれですか。2時間カロリー補給しないと脳がダウンしちゃうんですか。全電源喪失ですか。映画の中身アタマに入らなくなるんですか。 この状態が続くようなら席を変わろう(端とか前のほうはあいてた。上映五日目で七分の入り)と決意を固めたが、エヴァスタートと共にふたりとも動きを止めてくれた。 あれか、俺は感謝すべきなのか? もちろん間違ってるのは俺のほうだ。映画館の経営は食い物、物販のおかげで成り立ってる。ふたりのほうが「正しい客」なのである。そして映画観に行くのにダイエットもドレスコードも必要ない。 しかし、十年間映画館から遠のいていた自分に対する理解もまた深まったのである。映画は、人気映画は、観たい映画は、映画館で観るもんじゃない。正しいぞ、俺。それでいいんだぞ、俺。 「東京に」、ちょっと長くなってた感。エヴァの前には霞む。どうでもいい。圧倒的。 よくあんな量のポップコーンひとりで食えるな。袋菓子3つ分くらいはあるぞ、あれ。

クイックニングの感想 1

 俺はツイッターで24人しかフォローしていないのだけど、それでも公開から僅か3日で明らかにネタバレと思われる重要情報が容赦なく目に瞬時に飛び込んでくる。防ぎようがない。これはもう「観る前に中身が全部わかっちゃう」事態を避けるため一刻も早くモノホンを観に行かざるを得ない。せめて一週間くらいは経ってからぎゅう詰めでない状態で、と思っていたがツイッター時代はそういうのんびり生活を許してくれない。  24人フォローの俺ですらそうなのだから、千人とか八千人フォローとかのひとって、本篇はおろか制作裏話まで知悉することを余儀なくされているのではないだろうか。  大傑作でしょう。  序、破、Qと全部傑作で、しかも一作ごとにより良くなっている。当たり前っちゃあ当たり前だけど、そうはならないのがシリーズものの通例なのだからやはりすごいことだ。  鉄。メット。LCLは? 青。圧倒的な青。ブッダ。版権。キングレコード。キングはやっぱりキングレコードから? 目が覚めたら戦争犯罪人。原子力村。兵士。技術者。科学者。  神殺し。神は覚醒初號機を意味する?  14年たっても14歳。永遠の14歳。永遠の中学2年生。  乞食小屋の美少女。表札。ブラック綾波レイ。十字架。回転する別の地球。 「少年! 将棋はさせるか!」。出色のフィーチャリング冬月。  何事か吹き込まれ利用される人生。  首輪。付け直す必然性はゼロだが?  老人たち。「予言を成就させる」という転倒した思考。カルト。  生き残ったネルフ。完全無謬、千手先まで読める軍師ゲンドウ。  そら無気力なりますわ。ひとつも悪くない碇シンジ君。 「つづく」の文字。シン=新=真=シンちゃん=sin(罪)。末尾に見えるのは「1」?  のれんに腕押し、糠に釘、という言葉を二時間の映画にするとこういうものになるのだと思う。  言葉にすればそうなるけど、しかしこの内容の充実度はどういうことだろう。しかしあらすじを言葉にまとめればこうなってしまうのだ。どういう映画なんだ。  綾波を救いたいというシンジの願いも、いや、遡ってヤシマ作戦すらも、すべてが無駄。すべてが徒労。いろんなひとのいろんな頑張りが全部ゴミ箱行き。そして綾波も救えていない。目の前にいるのはアダムの容れ物とか呼ばれる乞
 宮本はあるとき、農業指導にたずねていった北河内郡の被差別部落の区長からこんな話を聞き、いいしれぬ衝撃を受けた。縁側に腰をおろし、戦況について雑談をしていたときだった。区長は突然、こういった。 「私たちはね、本当はこの戦争は日本が勝ってもアメリカが勝ってもどっちでもいいと思っているんです。日本がおさめようが、アメリカがおさめようが、下積みであることにかわりはないのですから」  宮本は敗戦を説き回ってはいたが、アメリカに占領されてもいい、と公言する日本人に出会ったのはこれがはじめてだった。  宮本は自分のなかで区長の言葉を何度も反芻し、これはこの人一人の問題ではない、日本全国には何百万、あるいは何千万というほど下積みの生活を強いられ、自分たちの意志でないことのために働き、しかも報われることのない人々がいるのだとあらためて思った。 『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』 佐野眞一、1996年。

009 RE:CYBORG

 錦糸町の北口徒歩5分のとこにそんな施設が出来てたなんて全然知らなかった。駅前の楽天地じゃなくて東宝シネマズはそのなんとかいう巨大商業モールにあるのでした。  映画館久しぶりだな。十年ぶりくらいかな。最後に観たのたぶんマトレボだな。  ぷらっと行って当日券買おうとしたら2時からの回は3D上映、通常上映は4時からとか言われて、2時間時間つぶすのもやだからいやいや3D観たわ。当日券1800円プラス3Dメガネ代400円、合計2200円。こりゃ大変だわ。映画、一大レジャーだわ。映画一本観るの、一大決心だわ。そりゃみんな行かなくなるわ。俺も十年観ないはずだわ。業界、自分で自分の首絞めてるわ。自業自得だわ。ザマーミロだわ。  これが更にデートなんてことになったらメシ代(千円)プラスお茶代(300円)おごり(×2)で7000円。そら男子草食化しますわ。彼女を持つ、なんて、車を持つ同様維持費かかり過ぎますわ。  映画は結構面白かった。  以下、「009 RE:CYBORG」の感想です。 http://009.ph9.jp/  うん、結構面白かった。未完の天使篇(石森先生っていまだご存命中なのかなあ。調べりゃわかっけどいいや知らなくて)に対するこれが神山健治監督の回答(RE:)なわけだ。うん。結構良かったんじゃないかなあ。  説明臭さ全開の大人バー会話に「ああもうだめだ駄作だ2200円プラス交通費損した」と絶望しかかったけど、あとはもう映像、作画、話の面白さの力でグイグイ見せてくれた。キャバ嬢寸前だけど003フランソワーズモレシャン(なんかそんなような名前だよね確か。いいやどうでも)エロさ全開で登場。もうこれでつかみはオッケーよ。  神山という人はオマージュが上手だよね。デパルマのようなオマージュのためのオマージュではなく、ちゃんと見せたい話がまずあっての上で、じゃあそれを見せる上で既存にいいブロックが、部品があったなら遠慮なくそれいただき、というやり方。これは盗用ではなく、「いろんな映画をよく見て勉強している」というふうに理解してあげていいのだと思う。マトリックスでウォシャウスキー兄弟が見せたやり方。時代直近のクールな文法を遠慮なく借用する。  この哲学、演出面においてだけでなくお話の構築においても遺憾なく発揮されている。すなわち軍事戦略における

なかにし礼

きのうの昼前のテレ朝ニュース番組。 「この無罪判決を受けてですねえ、いままで小沢一郎を犯罪者扱いしてきた……」 当然メディアとかそういう単語が続いて出るのかと思ったら…… 「民主党の人たちはね、自分たちの振る舞いをちゃんと検証して……」 文言は正確でないかもしれないが大略そんなようなことを言ってた。それも3秒5秒言葉をつまらせながら。 テレ朝アナウンサーたちは雁首揃えて反応しないよう、老人のしゃべり終えるのをじっと我慢し、話終わったなと見るや次の話題に強制的に移行した。 空気のように扱うなら最初からこういう死に損ない(Die Hard)入れるなよ、レギュラーに!

東電事件再審 マイナリさんに無罪判決

判決の言い渡しは午前10時半から始まり、東京高裁の小川正持裁判長は冒頭でマイナリさんに無罪を言い渡しました。 東電事件再審 マイナリさんに無罪判決 NHKニュース 11月7日 10時43分 「再審ってこれありえないと思いますけどね」 「もう間違いなく犯人であると自信持ってますから」 警視庁元捜査一課長平田冨峰(フホー)の発言 on 120608 クローズアップ現代 マイナリさんは、支援者を通じてみずから日本語で書いたコメントを出しました。 この中では「うれしいけれどくやしいきもちもあります」と無罪判決に対する感想を記しています。みずから書いたコメントでは、警察と検察、それに裁判所に対して「どうして私が15年かんもくるしまなければならなかったのか、よくかんがえてわるいところをなおして下さい。無実のものがけいむしょに入れられるのは私でさいごにして下さい」と訴えています。 マイナリさん 悔しさも  NHKニュース 11月7日 13時58分 ゴビンダ・プラサド・マイナリさんの再審無罪判決を受け、東京高検の青沼隆之次席検事は7日、取材に対し、「真相解明がなされていない。冤罪(えんざい)と言うのは時期尚早だ」と述べ、マイナリさんへの直接の謝罪は「現段階では考えていない」とした。  判決直後の上訴権放棄については、「結果的に15年間の長きにわたって拘束した重みがある。不安定な地位はあまりにも酷だ」と説明。一審無罪への控訴は不当だったとする弁護側の訴えには、「当時の証拠関係では間違いではなかった」と反論した。  別の検察幹部は「真犯人を逮捕して起訴し、マイナリさんは冤罪だと言えればいいのだが」と語り、今後の再捜査は困難との見通しを示した。 「冤罪」と認めず=直接謝罪も否定―再審無罪に東京高検  時事通信  11月7日(水)20時22分配信   無罪判決を出した裁判所に対し再勾留請求を出すこと自体、自家撞着であり、ひいては法の自殺行為ともなりかねない。こんな手口がもしまかり通るならば、再勾留請求を連発することによって、被告を半永久的に拘置所内に収監しておくことも可能となる。  ここで注目すべきことは、前の判断と後の判断を下した延べ六人の裁判官の中に、たった一人だけ同一の人物がいたことである。わずか一ヶ月足らずのうちに全く正反対の決定を下し

EVA最新13巻 特装版

 完全予約注文とか言ってなかったっけか? そういう商品はまた別にあるのか?  きのう本屋さんに平積みになってたのでなにげに買った。多少高くてもいいや、特装版なんだから、とか思って値段も見ずにレジに差し出してびっくり。  飛び出すおっぱいカード、ポストカード、扉絵コレクション。おまけてんこ盛りなのにこの値段(850円+税)はすごいよねえ。コスパ高すぎ。  アクリル彩色かなあ。描き下ろしポストカードが素晴らしい。  扉絵で振り返ると、最初から上手いと思ってた貞本義行が実はそんなでもなかったことがわかる。それがいまに至るまで着実に上手になっていく過程が見えて面白い。顔も絵柄も端正になっていく。いまだ伸びざかりの作家である。  クイックニングが公開されようというときに「まごころを君に」のコミカライズに黙々と従事するのはなかなか絵師としてつらいものがあると思う。こんな仕事に意味あんの? という疑問に圧し潰されてもおかしくない。  しかし、貞本義行直筆の再構築と、貞本義行の碇シンジ(庵野秀明のそれとは明らかに性向が異なる)は確実に望まれているのであり、描いて出せば必ず売れるという事態はやはり絵師にとっての幸福でないはずがない。エヴァに関わってしまった天才絵師の、背負わざるをえない宿命である。 箱が非光沢紙なのでまた発色がすばらしい。

スターウォーズ再始動

プリクエルの頃「実はスターウォーズって最初から六話構成で構想されてたんだぜ。みんな知らなかっただろう」みたいなクソ記事をなんかの雑誌で見て「ええ?」と思ったことがある。全九部作というのがマニアならずとも基礎教養だと思っていたから、なにほざいてんだこの馬鹿、と思った。 きのうディズニーに権利を渡し789と作られることになった。ルーカスがやるより面白いものになるんじゃないだろうか。 十年くらい前かなあ。テレビ点けたらなんか難病の人(異常な太り方をした人。象皮病とか言うの?)が映ってて、そんときうちのテレビは副音声の方になってて海外ドキュメンタリーらしきその番組の原語(英語)のほうでしゃべってて、「ああ、大変な病気のひとなんだな。たいへんだな」とか思ってボーっと見てたんだけど、なんかスターウォーズがどーのこーのとか言ってるみたいだし、着てるものがなんかジョージルーカスみたい(例のネルシャツ)だし、なんかちょっとジョージルーカスに似てるし、とか思ってたらほんとにジョージルーカスなのであった。 難病のひとのドキュメンタリー、じゃなくて、スターウォーズのドキュメンタリーなのであった。 きのうのディズニーとの調印式ではすっかり普通の体型に戻ってたけど、首の下だけやっぱジャバザハットみたいになったままだった。あの劇太りはいったいなんだったのだろう。食い過ぎでしょうか。 プリクエル云々に付言すると、あれは「ギャグ」だったのだと思う。古色蒼然とした壮麗な音楽が鳴り響く中「第4話 新たなる希望」、そしてダーッと流れる「これまでのあらすじ」。気合い入れてやってきたSFマニアたちよりも、ふらっといつもどおり映画館に暇つぶしに来た高齢者のほうがすぐにわかる。「ああ、懐かしいねえ」と。連続冒険活劇、テレビ普及以前の、週替りに上映されていたプログラムピクチャーへのオマージュだと。わかってもらった時点でこのギャグはもう役目を終えている。ほんとに3作目だの5作目だのがつくられる必要は全くない。全9部作というのもそのギャグ、見立てを楽しむための裏設定以上の意味を持たない。 ファンの熱い声援に応えて続編が作られてしまったことは大惨事に終わったと俺は思う。ジョージルーカスという才能が評価され彼の思うとおりにフィルムが作られた途端、露呈したのは彼のティムバートンのそれに匹敵する過剰な