プリクエルの頃「実はスターウォーズって最初から六話構成で構想されてたんだぜ。みんな知らなかっただろう」みたいなクソ記事をなんかの雑誌で見て「ええ?」と思ったことがある。全九部作というのがマニアならずとも基礎教養だと思っていたから、なにほざいてんだこの馬鹿、と思った。
きのうディズニーに権利を渡し789と作られることになった。ルーカスがやるより面白いものになるんじゃないだろうか。
十年くらい前かなあ。テレビ点けたらなんか難病の人(異常な太り方をした人。象皮病とか言うの?)が映ってて、そんときうちのテレビは副音声の方になってて海外ドキュメンタリーらしきその番組の原語(英語)のほうでしゃべってて、「ああ、大変な病気のひとなんだな。たいへんだな」とか思ってボーっと見てたんだけど、なんかスターウォーズがどーのこーのとか言ってるみたいだし、着てるものがなんかジョージルーカスみたい(例のネルシャツ)だし、なんかちょっとジョージルーカスに似てるし、とか思ってたらほんとにジョージルーカスなのであった。
難病のひとのドキュメンタリー、じゃなくて、スターウォーズのドキュメンタリーなのであった。
きのうのディズニーとの調印式ではすっかり普通の体型に戻ってたけど、首の下だけやっぱジャバザハットみたいになったままだった。あの劇太りはいったいなんだったのだろう。食い過ぎでしょうか。
プリクエル云々に付言すると、あれは「ギャグ」だったのだと思う。古色蒼然とした壮麗な音楽が鳴り響く中「第4話 新たなる希望」、そしてダーッと流れる「これまでのあらすじ」。気合い入れてやってきたSFマニアたちよりも、ふらっといつもどおり映画館に暇つぶしに来た高齢者のほうがすぐにわかる。「ああ、懐かしいねえ」と。連続冒険活劇、テレビ普及以前の、週替りに上映されていたプログラムピクチャーへのオマージュだと。わかってもらった時点でこのギャグはもう役目を終えている。ほんとに3作目だの5作目だのがつくられる必要は全くない。全9部作というのもそのギャグ、見立てを楽しむための裏設定以上の意味を持たない。
ファンの熱い声援に応えて続編が作られてしまったことは大惨事に終わったと俺は思う。ジョージルーカスという才能が評価され彼の思うとおりにフィルムが作られた途端、露呈したのは彼のティムバートンのそれに匹敵する過剰な幼児性だった。あらゆる要素がごった煮に詰め込まれたスターウォーズという映画の魅力は、たちまち次作以降「ファンタジー」の一語にその内容がちっぽけに収束してしまった。
第一作エピソード4の中で俺がいちばんいいシーンだと思うのは出撃直前、「スティーブマックイーン」という人名を想起させる顔の整備クルーたち(どっかの星の異生物ではなく紛れもないアメリカ人)がカコン、カコン、と給油ホースを外していくところだ。70年代アメリカ映画、カーレーシングムービーとしか言いようのない絵。道路沿いにエッソ、シェルの看板が立つ「俺たちの現実と地続きな感じ」があったから虚実皮膜、ファンタジーに収束せず脳が混乱してジャンル特定不能の不思議な大傑作映画になったんだと思う。振り返るなら、監督一人の天才がそれを可能にしたのではなく、監督の意図を色々と掣肘する不如意な制作環境がむしろその傑作誕生に資するところ大だったのではないか。
プロデューサーアプリオリに悪なりや? そういうことを最近よく考えるものであります。
プリクエル云々に付言すると、あれは「ギャグ」だったのだと思う。古色蒼然とした壮麗な音楽が鳴り響く中「第4話 新たなる希望」、そしてダーッと流れる「これまでのあらすじ」。気合い入れてやってきたSFマニアたちよりも、ふらっといつもどおり映画館に暇つぶしに来た高齢者のほうがすぐにわかる。「ああ、懐かしいねえ」と。連続冒険活劇、テレビ普及以前の、週替りに上映されていたプログラムピクチャーへのオマージュだと。わかってもらった時点でこのギャグはもう役目を終えている。ほんとに3作目だの5作目だのがつくられる必要は全くない。全9部作というのもそのギャグ、見立てを楽しむための裏設定以上の意味を持たない。
ファンの熱い声援に応えて続編が作られてしまったことは大惨事に終わったと俺は思う。ジョージルーカスという才能が評価され彼の思うとおりにフィルムが作られた途端、露呈したのは彼のティムバートンのそれに匹敵する過剰な幼児性だった。あらゆる要素がごった煮に詰め込まれたスターウォーズという映画の魅力は、たちまち次作以降「ファンタジー」の一語にその内容がちっぽけに収束してしまった。
第一作エピソード4の中で俺がいちばんいいシーンだと思うのは出撃直前、「スティーブマックイーン」という人名を想起させる顔の整備クルーたち(どっかの星の異生物ではなく紛れもないアメリカ人)がカコン、カコン、と給油ホースを外していくところだ。70年代アメリカ映画、カーレーシングムービーとしか言いようのない絵。道路沿いにエッソ、シェルの看板が立つ「俺たちの現実と地続きな感じ」があったから虚実皮膜、ファンタジーに収束せず脳が混乱してジャンル特定不能の不思議な大傑作映画になったんだと思う。振り返るなら、監督一人の天才がそれを可能にしたのではなく、監督の意図を色々と掣肘する不如意な制作環境がむしろその傑作誕生に資するところ大だったのではないか。
プロデューサーアプリオリに悪なりや? そういうことを最近よく考えるものであります。
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