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アンディーウィアー「プロジェクト・ヘイル・メアリー」Project Hail Mary by Andy Weir

[プロジェクトヘイルメアリーをこれから読む方へ] 早川書房の訳書上下巻(少なくとも電子版は。紙の方もたぶん)、冒頭に二葉「挿し絵」があります。それ、見ないように、読まないように。ネタバレだから。なるべく見ないようページをめくり、文章から、本文から読み始めることをお勧めします。 さて。以下の感想もヘイルメアリー及び三体三部作のネタバレです。  12月初めにツイッター経由で本書の存在を知り直ちに購入。アンディーウィアーの前作に惚れ込んだ身からすればこれが面白くないはずがない。そしてやっぱり面白かった。期待以上に面白かった。年末年始のお楽しみにしようと思っていたら面白さのあまり今日大晦日に、年内に読了してしまった。 来年、これを超える作品に出会えるのか? はなはだ疑問だ。 もちろん今年度最高傑作。死神永生を超えた。死神永生に圧倒されながらもなにかしら物足りなさを、胸のつかえを感じていたその胸のつかえを一気に洗い流してくれる快作。そう、快作。こころよいのだ。心地よいのだ。爽やかな感動。 終章に至るまでの科学的ギミックをなにひとつ理解できなかった者でも、ただ読み通す膂力さえあればこの感動にたどり着けるはずだ。だってこれは友情の、人情の物語。12光年を股にかけた男の熱い浪花節だから。 黒暗森林で俺達はこの宇宙の現実を叩き込まれた。渡る宇宙は鬼ばかりだと。ともかく誰かが、何かがいたら、考えるな、すぐに引き金を引けと。その殺伐とした宇宙の公理を超克する大団円の展開があるかと期待した我々が死神永生で見たものは……これ以上は語るまい。 そう、プロジェクトヘイルメアリーは「三体」へのアンサーソングなのだ。俺たちには絶望しかないのか? 俺たちはただ生きんがために屠り合うしかないのか? 相手の技術爆発を恐れ猜疑連鎖の地獄を彷徨うしかないのか? アンディーウィアーはひとつの回答を示した。黒暗森林理論を無効にする超理論、新理論。それは友情だと。人の情けだと。 甘ったるい砂糖菓子のような結論か? しかし作者の筆致はそれを十全に説得力ある形で俺たちに叩き込んでくれた。溢れる感動と共に。 この師走に丸々一ヶ月かけて俺は12光年を亜光速で旅し、ウィアーの結論を身を持って体感したのだ。 ウィアーは決して現実から目を逸らして夢ばかり見ているわけではない。ストラット(彼女は面壁者の地位を獲得できたト
 
 

アイザックアシモフ「はだかの太陽〔新訳版〕」

  先行する著作の続編であるらしいことは読み出してから気づいた。世界設定の基本情報はまずそれを踏まえておいた方がよかったらしい。 アシモフのロボットシリーズはこういう順番らしい。 鋼鉄都市 はだかの太陽 夜明けのロボット ロボットと帝国 この四冊を読み終えれば俺は帝国の続きを読んでいいことになるのだよね? もしかしてその理解も間違ってる? ともかくそういう目的で本書を読み始めたのだが、事前に仕入れた情報通りだったね。帝国三部作の鮮やかさ、天才の閃きに引き換え……やはり精彩を欠くことは否めない。 ロボット三原則が話の核でありキーであり世界設定の根幹なのだが……そもそもその土台自体が堅固でないからどうしてもお話全体がツッコミどころ満載にふわふわしてしまう。 ローカルルールというか社是というかゲームというかプログラムというか。「ロボットをそういう規則で運用することにしました」と誰かが決めた、それを社会体で共有した、というだけのことであって、「ロボットであるからにはそう動くはずだ!」と自然法則であるかのように考えるのはおかしいのだが。プログラムでそう仕込んだり故障なり事故なりでロボがひとをあやめる傷つけるということは常識的に考えればいくらでもフツーにあり得るのだが。 アシモフくらいの頭のいいひとがそういうことに気づかないはずはないので、作者本人「なんか弱いよなー、説得力ねーなー」と思いながら筆を進めた、そういう感触こそがむしろよく伝わってきてなかなか苦しい読書だった。それが証拠にこの小説、いきなり作者本人の言い訳めいた序文から始まる。「ロボットシリーズはもうこんくらいでいーかって切り上げたかったんだけど、編集さんに懇願されてねー」。 主人公のデカなんたらベイリがいきなりもう吐き気のするような差別主義者で読むのがやんなったのだが、ニューヨーカーのアシュケナジであるアシモフが深南部のレッドネック、ホワイトトラッシュ気質であるはずもなく、これは作者のシャドウというか願望というか正反対というか、こういうマッチョな主人公にせめて想像の世界ではなってみたかったんだろう(帝国で常に社会の指導者となっていたのだからまあ怪しむに足りない)。人間が下等なロボごときに負けるはずがないとイキる粗野な行動派のデカであればあるほど、なるほど、温厚篤実なのに妻子とうまくいかなくて別居離婚の羽目になる
 
 
 
 

「犬神家の一族」(2006)

 1976年の映画があまりにもつまらなく俺はBSプレミアムで録ったその視聴を中途で放棄してしまった。 さて、午後ローで今回録った2006年版である。 またしても石坂浩二で、というのは映画情報に疎い俺でもうっすらとは了解していたはずだが、こうしてフィルム化したものを実際に観ると驚愕である。ありえない。復員したての青年私立探偵としてはあまりに無理がある。って当然みんな思ったろうけど。俺は思ったよ。無理がある。 つまり明らかに市川崑劇場なのだろう。横溝正史の小説を映画化すること、ではなく、1976年市川崑作品のリメイクそれ自体にウェイトが置かれている。 冒頭深田恭子の大根っぷりに辟易した(これは彼女の責ならずキャスティングが負うべき問題)が、あとは最後まで観ることができた。前作よりもたぶん映画としてはよくなっているのだろう。 前作で鼻についた豪華スター総出演的な押し付けがましさが随分減じていたので、それで普通に観れたのだと思う。 富司純子演ずる犬神松子の精神に去来する犬神製薬社長の亡霊、その視覚効果が気持ち悪くてよかった。ヒュンッ! って掠める感じが。
 
 

「獄門島」featuring 長谷川博己

BSプレミアムの録画(2016年11月19日放送)をいま頃観た。金田一耕助役に長谷川博己(ひろき)。 なんたら警部役を原作通り中央の有能なエリート官吏として描いている、その一事をもってしても本気で作っていることがわかる(その対極が市川崑作品。横溝正史の原作を徹底的に大衆娯楽化、換骨奪胎している。つまり端的に、ひどい)。 エンディングの哄笑。「バーカ、バーカバーカバーカバーーーーーカ!」。この鬼気迫る演技、変な顔、は「麒麟が来る」の足蹴の場面につながっている。天才、長谷川博己。 横溝正史の映像化作品をすべて網羅的に観ているわけではないが、おそらく第一級の出来であることは間違いない。そう思える読後感もとい視聴体験であった。 その後のシリーズ化はされていないのだろうか? このキャスティング、演出にはその価値が確実にある。演出、吉田照幸。 ラスト、島を離れる船にあの青年も同乗している。兵士時代、男娼まがいの時期、そして「お払い箱」になったいま。三者はまるで別人のようである。自己同一性、アイデンティティーなるものは境遇、外部が彼に強制するものなのだと雄弁に語るシーケンスとなっている。 舞台が敗戦直後であり、金田一耕助が復員兵であり、彼は瀬戸内周辺のどの集落どの孤島においても最終的に犯人を見つけこそすれ惨劇の進行は現場にいながら毎回ひとつも止められない、そのことの意味を考えてみる。 金田一耕助はインテリの無力を象徴しているのではないか。 近づく総動員体制を、戦争の非を、インテリは誰よりも早くに気づき警鐘を鳴らすが国家はもちろん大衆はいっかな耳を傾けない。むしろ大衆が率先して国家を焚き付けさえする。 金田一が戦場で見たもの、あるいは自身が関与することを強いられたものは、日本の農村僻村で起こる猟奇殺人とパラレルである。日本軍の蛮行残虐の淵源はただ軍の獣性に依るばかりではないとしたら。 なにひとつ止められない己れの無力をかこちながら、しかし眼前の事象を見ることをやめない、やめられないインテリ。それは無力であると同時にインテリの誠実でもある。金田一耕助、とは文学者、作家、の謂いなのかもしれない。

シンエヴァ 四周目

 最初っから違和感はあったんだけど、「不可逆的な」「相補性」がヤだなあ。 不可逆的な。そういう言い方の時に使わんでしょ。 相補性。「助け合い」って言いなよ。 文芸担当の人に頑張って欲しかったところである。が。 これが厨ニということなんでしょう。しょうがないね、エヴァだから。 あの脊髄ってなんすか。初号機の? 端的によくわかんねえんすけど。 まあ鳥みてえな艦(ふね)だから翼もあるし背骨もあるよ言われれば「そうすかねー」言うしかないけど。 それを槍に変えるという相談の会話はもはや。そんな簡単なもんなの? って思うけど本人たち「できる! わたし達の思いと更なる奇跡があれば!」とか言ってるしそんでできちゃったんだから思いも奇跡もあったんでしょう。観てるもんに一切疑問を差し挟ませない強引さはいっそ心地良い。 カヲルが生を繰り返してるのはまあいいとして、月の棺桶は別にあんな要らないでしょ。別の平行宇宙、平行世界なんでしょ? だったらひとつでいいじゃん。とか思うけど。違いますか!
 

「式日」

  シンエヴァプライム公開に合わせてアマゾンプライムは庵野秀明特集と言ってもいいくらいに見放題のラインナップを揃えた。かねてから気になっていた「式日」をこの機会に観ることにした。 うーん。 エヴァからSFメカ戦闘要素を抜くとどうなるか? 式日になる。 そしてそれはどうなるか? というと、壮絶につまらないのであった。 SFメカ戦闘以外のエヴァ要素が全部揃っているのに。 宇部。鉄道。儀式。赤い傘(ATフィールドの機能を持つ)。赤い海。家族の相克。メンヘラ女。飛び降り自殺確認行動(これはエヴァというより庵野)。パイプ椅子。カウンセリング。多少のエロ。 面白くなりそうでしょ? 要素だけ見たら面白くなりそうでしょ? エヴァとおんなじなんだから。でもそれがまったく面白くない。 なんでなんだろうね? 二時間七分は長いよ。この内容で。前半一時間はいらないよね。ばっさり切っても差し支えないんじゃないか? 延々「あしたなんの日か知ってる?」繰り返すだけだからね。 お父さん? らしきひととか自転車眼帯男(これも綾波要素っちゃあ要素)とかお母さんとか、ひとが登場すると退屈極まりない学祭アートフィルムが急に生き生きと動き出すよね。アニメーション効果もあいまって(監督の本領)。俗なドラマっていかに大切かを教えてくれる効果はあった。二時間アートだけはキツイって(マリエンバートもつまらんかったよねー)。 製作に疲れて鬱になったアニメ監督が故郷の宇部にふらり戻ったらこころの壊れた女と線路で出会い……って、これ、庵野監督の私小説、かつシンエヴァとプロットまったく同じなのよね。だからシンエヴァって式日の復讐戦とも言える。まったく同じ内容でもひと手間かけると大化けするわけだ。映画の不思議である。 プロフェッショナル仕事の流儀で庵野監督、宇部新川駅で同級生に邂逅すんだけどこれと完全に同じシーケンスが式日にまんま出てくる。予言の書となってる不気味さはある。監督が奇跡をやたら口にするのもむべなる哉である(この奇遇がシンエヴァのエンディングをもたらしたのかもしれない)。 おれ藤谷文子大好きだからかねてから観たい映画ではあったんだけど、キチガイ役とはかなりかわいそうであった。顔にもいろいろ塗りたくられちゃって。お父さん(こわいひととして有名。午後ローでよく見る。近接戦闘が得意)は多少ムッと来たに違いない。……観
 

「さようなら全てのエヴァンゲリオン~庵野秀明の1214日~」

プロフェッショナル「庵野秀明スペシャル」(75分)、BS1スペシャル「さようなら全てのエヴァンゲリオン~庵野秀明の1214日~」(50分×2)を続けて観た。 同じ撮影素材をプロフェッショナル仕事の流儀の方はそのフォーマット(ナレーション。問題発生&克服のドラマ。そしていつものテーマ曲)に加工してあり、BS1スペシャルの方は素材のまま生(き)のままに提出、な感じ。ほぼ同内容。 製作の実際を見れて面白かった。 絵コンテなし。東宝撮影所のミニチュアセット、役者を使ったプレヴィズ。いままでと同じことやってたんじゃ同じものが出来上がるだけだ、新しいやり方でやらなくちゃ、とチャレンジングな方法論で臨む監督。 庵野秀明がカメラ(兼おそらくディレクター)に向かってやたら「僕撮ってもしょうがないよ」を繰り返すのはやや印象悪かった。取材許可を出した以上ひとのディレクションに容喙するのはあまりいい振る舞いではない。「宣伝のため」とあけすけに許可の理由を述べていたが、であればなおのこと自ら印象悪くしてどうすんのか。 製作の実際と多少かけ離れても「庵野監督を主人公にしたドキュメンタリー」が作られるのはそのカリスマ性&需要から考えて仕方のないことなので、NHKのディレクションに大きな誤りがあったとは俺には全然思えない。 話ができない、神が降りてこないイライラを取材カメラにぶつけていたのであればNHKグッジョブ、まさに監督の人間性(やや小さい)を捉えることに成功していたと言える。 勿論往年の大監督や宮崎駿に比べれば庵野監督など紳士も紳士大紳士なんだろうとは思うが。 「別に俺はプロでもなんでもねえよ。偶像崇拝的な扱いはやめてくれ」ということであれば庵野氏は安心していい。氏が子供であることは作品とドキュメンタリーから十分に伝わってくるから(サッポロポテトバーベキュー味一気食いその他)。 鶴巻監督がまた出色でしたね。初参加ではないのだからすべてわかってたとはいえこの進行。精神病んでおかしくないのはむしろこのひと含め周囲だろう。 これじゃなにやりたいのか、なに言ってんのかさっぱりわかんねえよ、ってことで流れたDパート案、ちょっと見たいすね。 ゲンドウの独白がやたらわかりやす過ぎに流れた感はあるので、庵野監督が最初にこうしたかった案はやっぱ気になるじゃないですか。

シンエヴァ 三周目

訓練時代のアスカの表情が良い。アジア的、或いはヨーロッパ的な作画なのか、リアルな顔貌が殺伐としてあの場面に合っている。作画担当の癖、個性を意図的に活かした演出ではないか。 ヴォイジャー。「あなたを愛したというその経験をわたしは死ぬまでわたしの誇りとする」。本作のために書き下ろした? と思えるくらいズッぱまり。 んで曲の末尾が入線チャイムにきれいにつながるとこがニクイ演出。宇部新川、ほんとにあれなんだね。奇跡的。 ゴルゴダオブジェクト。「人ではない何かが神の世界をここに残した」らしい。人類ではない何者か、と、神、の二つが人類に先行していたらしい。それ、何? マリちゃん。乳のでっかいいい女なんだけど、ウザいとこもたくさんある。懐メロ好きはいいけど、それを作戦実行中に作戦伝達回線上で歌うのはアウトでしょ。もし男だったら「余裕ぶっこいてるテイの虚勢」として軽蔑されても仕方のない所だよ。 あと何ヶ国語も無意味に披瀝すっとこ。加えて猫語。なんでわざわざ嫌な要素キャラに重ねるのかね。 ルージュを引いたマリは凄まじく魅力的だったので勿論俺は好きなんだけど。だから困るんだけど(好きにはなるけど結婚は無理)。 非常脱出ポッド、なんであんな船殻を無理無理押し破る形で出る? 惑星大戦争のテーマ、合わんかったなー。またあれ、宇宙大戦争でよかったのに。 L化とかL結界とかって結局なんなの? Lはなんの略? なんで電車とか浮いてんの? 月とかに退避するとL化もアディショナルインパクトも避けられるんじゃないの? そういう甘いもんでもないの? あの月っぽいデカい浮いてんのは結局なに? 「お前もおとなになったなあ」なんてゲンドウが言う? 抱きしめる? ちょっと無理無理まとめた感はあった。 最後に落ちてくひとたち(エンドゲームの逆指パッチンみたいなこってしょ? 要するに)。普通に考えたらあの、大変なことになるんだけど。そこらへんは大丈夫なの? ふわりと着地してくれるの? 新旧聖書の意匠、タームをやたら使い勝手な意味を付与しまくるエヴァシリーズは「大丈夫かなあ。クレーム来ない?」と観てるこっちがハラハラしたりするのだが、大丈夫。聖書に勝手に尾ひれをつけ美化したりOVAつくったりしてきたのは他ならぬ西洋文明の歴史だから(そもそも聖書自体が盛ってる盛ってる。ヨハネの黙示録なんて誰かがある日見た夢の話。イエス全

シンエヴァ 二周目

一度目には気付かなかったことに当然色々気付く。 宇部以外にもああいう村がいくつかあり、クレーディトが交易の媒介をしているらしい。勿論食料配給も。 そっくりさんを「初期ロット」と完全に人間性を否定する形で呼ぶ式波だが、彼女にはそれをしていい(よくないが)事情はある。自分もまた人造人間だから。これはびっくり。 綾波モデルは碇シンジに好意を持つよう最初からプログラムされているという。 式波モデルはどうなの? そうでないとアスカは言えるの? ユイが中にいるエヴァという最重要機体、それをパイロットごと守る近衛兵の役目を、二人に負わせていたんではないの? 最初からプログラムされた都合のいい女。なんか既視感あるなと思ったらあれだ、「旅マン」だ。 再生水文句言い唇厚子さんがシンジに銃を向けるシーケンスがなかなか良かった。あれが厚子さんだけのあれなら月並みで退屈なドラマとなるところ。ところが実際撃ったのはその後ろにいた鈴原妹。そしてその銃弾から身を挺してシンジをかばい被弾するミサト。あっけにとられる厚子さん。この一連の流れで全員の、絶対にほぐれるはずのなかったわだかまりが一挙に解きほぐれる。 被弾したばかりかミサトは全員を下船させ自ら特攻する。特攻せざるをえない。なぜなら、ミサトがしてきたことは間違っているから。 息子は14歳。その息子の生存のためにミサトはかつてと同じオプション、「他人とはいえ息子と同じ14歳の少年を人型決戦兵器に無理やり乗せて使徒と戦わせる」ことはもはやできない。自分の息子にそんなことやれと言える? 親になってそれが初めてわかる。他人の息子なら構わない? かつては人類の生存のためと称して冷徹な司令官に無理やりなりきりそれを命令していた。ミサトは自らを罰しなければならないし、単身出陣しなければならない。勿論、マリにシンジのサルベージを命ずることも忘れない。もうシンジを犠牲のにえにしてはいけないのだ。 役目を終えたヴンダーの最期。葛城ミサトの壮絶な殉死。 で、マリさんって結局何者なんだ? なぜ大学生から中学生になっちゃったんだ? イスカリオテのマリア、という通り名をかつて持っていたらしい。それはいつ頃の話? 千年とかそういうオーダー? イスカリオテはおそらく裏切り者を含意する接頭詞だろう。神に対する? ネルフに対する? ゲンドウに対する? 人類補完計画に対する?

シンエヴァを観た 一周目

きのうから配信が始まったのでシンエヴァを初めて観た。プライム月額500円で見放題はいいね。 映画館はコロナが怖くてよお行かんかった。二時間半座りっぱはキツイしね。中座したくなる。家で観れるのは楽でいい。 んー。面白かった。 なんかちゃんとしてたね。ちゃんと普通の映画になってた。 ゴダールとか実験映画とかそういうのに逃げてなくて良かった(エヴァシリーズには前科がある)。 感心したのはあれね。裏宇宙設定。「人間は裏宇宙をそのままには認識できないので自分の有り合わせの知識、経験で勝手に置き換えて覚知する」みたいなことをゲンドウが言ったけど。これすごい便利。 よく映画評論であるじゃん。このシーンはなんたらを象徴している、みたいな言い方。 その評論の手法を反転して映画製作にそのまま応用した感があった。これはコペルニクス的に画期的なんじゃないか(そうでもない?)。庵野監督がやりたい、見せたいシーケンスを脚本上の整合性なる縛りから解放して自在に盛り込むことができる。制約のない器としてのマイナス宇宙。なおかつ破綻なく物語に回帰できる便利な装置。 だからそこでシンジとゲンドウはエヴァ二体で新東京市やちゃぶ台や新東京村を舞台に脈絡なく戦うことができる。ゲンドウは宇部のローカル線で自分の精神的来歴を吐露することができる。 あれが東宝撮影所のセットなのも面白い。押されてすべる模型の建物、世界の限界たる青い布幕。この世界をつくったもの、のメタファーにいろんな意味でうまいことはまっている。 ゲンドウの目ン玉つながり眼鏡の理由が明かされるのも楽しかった。実際目ン玉つながりだったからっていう。 冬月の謎は明かされないままだったなあ。友達だから? それだけ? 付き合いのいいひとだなあ。 宇部駅のプラットフォーム。あそこでなんたらチョーカーを外したってことはつまり転生直後なわけよねあれが。一瞬であそこに跳んだ。綾波も渚司令もマリちゃんも、そしてシンジ自身も。エヴァのループから、コーダから解放され、ネオンジェネシスに跳んで新しい人生を歩み始めた。 すべてのエヴァンゲリオンにさよならできたから。エヴァシリーズは呪いだったのだ。 そっくりさんはせづねえ話だったねえ。 しかしその犠牲と、新東京村の最後の人類がシンジに覚悟を決めさせた。俺がすべてを終わらせてやると。 アディショナルインパクト。「三条友美か!
 
 
 
 
 冷食のちゃんぽんうまい。手軽で良い。
 何がご馳走ってハムカツ焼きそばパンはご馳走でしょう。
 
 
 
 
 
 
 
モランボンのタレで牛丼。安い米国牛肉でも全然うめえや。 王将の餃子も美味也。  
  リュージのレシピでニラ玉。美味い。

オッドタクシー讃

題名に惹かれてなんとなく録画したんだよね。そして録画したのを一部だけ観て、オープニングアニメの絵に好感を持った。それで以降も録画を続けたのだが、ちゃんと観たのは第九話からだ。唸った。濃密な脚本。此元和津也……コノモトカズヤと読むのか? とんでもない才人だ。そして、このホン(脚本)を殺さない邪魔しない、十全に活かす演出(木下麦監督)。 録画してあった二話以降を急ぎ観た。夢中で観た。 そして迎えた最終回。砂の器か人間の証明か。すべてが、人々のどん詰まりが一点に収束していく中小戸川少年の手記が疾走するタクシーに被さる。マグノリアでありパルプフィクションでありタクシードライバー。絵本のフォーマットで描かれたフィルムノワール、ハードボイルド。 剛力が大家さんと話すところで犬が縁側から吠えている。「あれ? 演出間違えてる? 世界観の構築に失敗?」とか軽く思ったがこれがまさに伏線。 そもそもオープニングアニメで猫が猫として登場。押入れからもしっぽがくねっと出ている。解答は最初から堂々と提示されているのだ。 白川さんが命がけで救った(「みゃりゅてぇいりょ!」)命なんだから、あのラストはちょっとセブンぽくてヤだったなあ(セブンそのもんなら劇中で描いて嫌な気持ちさせて終わりだからもっとひどいけど)。ハッピーエンドで終わらしてくれてもいいのに。 救い、頼みの綱は幸せのボールペン(唐揚げクソ女の握るそれにカメラはちゃんとフォーカスしている)だが、あれで凶行がバレて人殺しクソ女が捕まり、程度では勿論納得できない。小戸川さんが惨劇に遭うのでは意味がない。 何をお前は本気で心配しているのかって? 友達だからだ! オッドタクシー 公式
 
 
 

「三体Ⅲ 死神永世」感想3

本来伝えるべき情報を指しているのは、第一のメタファーの上に乗った第二のメタファーということになる。 二層メタファーが示す意味がこれでまちがいないことを追認するために、もうひとつ、メタファーを支える一層メタファーがつけ加えられている。 一作目で三体の物語はフラクタル構造であることが示唆された。であれば、雲天明の物語と同じ構造が雲天明の物語を語る物語に存在する構成となっていても不思議ではない。 程心とガンイーファンの愛の巣もまたあまりにひとつの童話然としていることに気付かないか。 ここに閉じこもって日々を穏やかにひっそりやり過ごせば僕らは新しい世で自由な生を謳歌できる。 これは旧弊に窒息しそうな統制国家から亡命した知識人のアナロジーにも見えないか。彼らは祖国を見限り、崩壊後の新時代に期待を寄せている。 だが、新時代の到来を安全地帯から座して待ち滑り込むことは果たして可能なのか? 物理的に。或いは倫理的に。 そもそも自身がそこに身を投じ関与しなければ、新時代そのものを期待できないとしたら? それは思い上がりか? 自己の過大評価か? 宇宙の総質量とビッグクランチに仮託して知識人、力ある者、或いは人間すべてのあるべき倫理がそこに語られているようにも思える。 長大なヴォリュームで語られたエピソード、思想、アイディアは他にも枚挙にいとまがないのだが、以下簡略にまとめておきたい。 残念だった点: 1. 史強の不在 残念です。また会いたかった。まあ、史強の代わりがトマスウェイドなんだろうね。 トマスウェイドはいいキャラクターだったね。凶暴な極悪人なのになぜか律儀に約束は守る。これもなんか理由があんだろうね(劉先生が作ってあるに違いない設定を知りたい)。 2.木星のスペースコロニー 必要だったんですかね、あのコロニーめぐり。三体読書中珍しく「飽きた」。結構退屈。 誤発令シャトル奪い合い事件なんかもそう。要るかな? って思った(ただし、アイエイエイにも最後に罰を与える、その口実として要る段かなとは思う。程心が雲天明の運命を最初何も考えず踏みにじった、その罰を受けねばならぬのと同じに)。 3. 終盤、ああいう運命に持ってく手付きがやや乱暴、作為的に見えた。デスラインが危険なら遠くから認めた瞬間踵を返して帰ればいいし、アイエイエイをひとり残したのも不自然。 良かった点: 1. 光速ド
 
 ジャーマンポテト(リュウジのレシピで作った)。おいしいけど、メシのおかずではないね。

「三体Ⅲ 死神永世」感想2

   では、宇宙は、生命によってすでにどれだけ変わってしまっているのだろう?  どれほどのレベル、どれほどの深度で改変がなされているのだろう?  圧倒的な恐怖の波が楊冬を襲った。  すでに自分を救うのは無理だとわかっていたものの、楊冬は思考をそこで停止して、心を無にしようとつとめた。だが、新たに浮かんだ問いが、どうしても潜在意識から離れなかった。  自然は、ほんとうに自然なのだろうか?   上巻の頭で提示されたヤンドンの問いは正鵠にこの世の真実を射抜いていたことが下巻で明かされる。秒速30万キロの光速。物理定数にはなんと「理由」があるのだ。 宇宙は無垢の自然ではなかった。 三体Ⅰを読んだとき「ああ、物理定数の話ね」と前半で思った俺はあながち間違ってなかった。後半それがミスリード、ひっかけ、マジックとわかる展開ではあったが、三部作を通して見るとヤンドンはソフォンマジック以上の深淵に気付いたからこそ恐怖したのだ。 文革の話で始まるⅠだったが、Ⅲ上巻巻末「雲天明との対話」もまた文革的、現代中国をいまだ支配するなにものか的であった。対話の途中で黄信号が灯る。黄信号をすっとばして赤が点き後部座席の水爆が起爆する場合もあるよと脅されている。 中国配信のNHK映像が突如ブラックアウトするあれを想起する。 もういませんよと「公式にはアナウンスされた」ソフォンをなおも警戒し何気ない日常女の子会話で誤魔化す程心アイエイエイ。監視社会下における庶民知そのものである。 家に着くまでが遠足であるように、三体は巻末解説を読み終えるまでが三体だ。Ⅲは大森望の訳者あとがきに先立って藤井太洋氏の解説もあり、これが劉慈欣のひととなりをおそろしくよく伝えるものになっている。 国家副主席の祝辞があるのでネクタイを締めてくるように、と招待状に書いてあったような大会で、半袖のデニムシャツとチノパン姿でふらりと歩いている男性を一目で劉慈欣だと気づけたのは、ヒューゴー賞をとってからの一年で劉慈欣をメディアで見ることが増えていたからだ。  カジュアルな格好で登壇した劉慈欣が浮いていたことは否めないし、主役を押し付けられて辟易しているようでもあったが、訥々と語られる言葉は次第に力を増していった。 作品を通じて伺われる作者像、その考え方は「敵をなめない方がいい」だし、楽天的な未来を語り民衆を鼓舞(焚きつける、と

「三体Ⅲ 死神永世」感想1

  上下巻読むのに都合二週間はかかったなあ。 もう面白くて面白くて、読書に充てられる時間は全部ぶっこんだね。Ⅰ、Ⅱの時と全く同じ。 それでも、「まだあるのか。まだ終わらないのか」と多少唖然とはした。三部作いちばんのヴォリュームだ。 最初の大ネタでもうつかみよるつかみよる。未来技術、謎SFアイテムに一切頼らない、現行科学技術のみで可能な有人()宇宙船の光速加速。俺はたまげたよ。なるほど! 確かに! しかし、なんでこんなこと思いつけるんだ!? SFファンのみならず航空宇宙関係者も顔面蒼白、真面目に驚嘆したはずだ。劉慈欣、もはや科学者(或いは軍師、軍略家)として認知されてしかるべきだろう。 雲天明の人物造型がまたよい。究極のハードボイルドとはこれだ。俺は恥じたね。コンビニで店員さんに「袋お願いします」言える程度には存在する自身の社交性を。雲天明ときたら…… 「ぼくは宣誓しません。この世界で、ぼくは除け者だと思ってきたし、楽しみや幸福もほとんど味わったことがない。愛情だってそうだ」 「でもぼくは、この宣誓をしません。人類に対して自分がどんな責任も担っているとも認めない」 「ぼくはべつの世界が見たい。人類に対して忠誠を誓うかどうかは、ぼくが見た三体文明がどんなものか次第だ」 徹底した孤独者の凄み。こんなかっこいいヒーロー、見たことない。SFギミックのアイディアのみならず、この度外れた人物造形もまた劉慈欣の魅力なのだ。 「彼は一匹狼です!  あんなに内向的でひねくれた人間をほかに知りません。周囲の社会に適応する能力をまったく持ち合わせていないのです」 「それこそが五号の最大のアドバンテージになる。おまえの言う社会は人類社会だ。この社会にうまく適応できる人間は、社会に依頼心を抱いている。そんなやつを人類社会から切り離して、まったく異質な社会に放り込んだら、ほぼ確実に致命的な精神崩壊を来すだろう。そのタイプの典型的な例がおまえだ」 こう喝破したトマスウェイドもまた異彩を放つキャラクターだ。PIA長官、と書けば、このPIAがCIAの星間戦争版とすぐにわかる。マイナーどころで言えばジャックキャノン。有名人で言えば元KGB長官ウラジミルプーチン。彼のモデル? と見紛うような人物が実際の情報機関に必ずいる。そういうタイプの狂犬。 「前へ、なにがあろうと前へ、だ!」 さて、そのウェイ

進撃の巨人(34 最終巻)

  やっと完結した。 NHKのインタビュー(二年くらい前のだったか。先般再放送してたけど)で諫山創氏が語っていたそのことが実に腑に落ちる結末だった。曰く、社会、天下国家、そういうことじゃなく、実は自分のパーソナルな問題意識を作品に込めたのだと。 これあれだね、九州男児の話だったんだね。 ワイフビーターの苛烈な暴力に、それでも母よなぜあなたは耐えるのですか、と。 諫山の家がそうだったかは知らない。たぶん違うだろう(村ではむしろ珍しい知的な家庭ならではの相克はグリシャとジークのそれに投影されているかもしれない)。しかし、壁のような山々に囲まれた大分の集落で九州男児の気風と無縁に彼が過ごせたはずはない。 なぜ? と少年諫山は、青年諫山は、アルミンよろしくその心に刺さる棘を見つめ続け、意外な回答を得たのだろう。 不合理、因習、苛烈な差別を支えるその根本には愛がある。「女は黙っとれ!」と声を荒げ拳を振り下ろす逞しいワイフビーターに、母は心底惚れているのだ。 俺が感じた最終巻いちばんの魅力。やはり最後もこれで締めてきた。アルミンの得意技、ダイハードイズムだね。「考えろ、考えるんだ。考えることをやめるな!」。絶体絶命の、勝てっこない絶望状況、圧倒的な暴力にアルミンは徒手空拳、ただただ思考それのみで立ち向かう。 「道」で交わされるジークとの対話は究極の思想戦だ。人生とは何か? 生きる目的とは何か? この戦いでジークは考えを改める。確かに最後は死だ。どうせ最後はみんな死ぬ。だが、それがなんだと? クルーガーが、グリシャが、クサヴァーさんが、叛逆の巨人と化して加勢する件りは感動的。そのあとまさかの展開で「諫山さんどこまで意地悪なんだ! ハッピーエンドでもいいじゃないか!」と驚愕落胆しかけたがここでまた二転三転。物語は一応の大団円を迎えて俺は一安心した。 最後の最後にしかし一抹の毒は撒かれたけれども。 思ったとおりおまけ漫画スクールカーストは本編と地続きだったんだね(第30巻、エレンが首ふっ飛ばされて過去と未来が宙に舞う見開き頁左上に小さくゴスミカサ、下衆アルミンが登場している)。 空爆はこの映画館を出た直後の、ややこそばゆい幸せに包まれている三人をまさに襲ったのかもしれない。 ラストの少年は空爆の被害者、生き残りであり、デルタ型のその空爆機を差し向けた大陸の連中に復讐の炎を燃やしている
 
 
 
 
 野菜炒め。町中華の味は化調が決め手。
 
 

ファウンデーション

  古典SFの名作をいま頃初めて読んだのは三体一部二部の解説で言及されること多かった作品だからだ。で実際読んでみると三体は言うに及ばずその他の重要な作品にも影響を与えていることが明瞭に見てとれる。銀英伝。ナウシカ。まあ俺がわかったのはそんくらいだけど。 そして田中芳樹も宮崎駿も影響を受けつつ独自の偏向と解釈で銀河帝国の興亡をリライトしているのが面白い。 そう、リライトなのだ。ファウンデーションはその意匠、カウル、外皮がさすがに時代的制約を受けて古臭く(原子力=人類究極の万能エネルギー。マイクロフィルム以上の記録手段を発想できない限界)、しかし物語の発想、根幹自体は古びることない、時代を超克した力強さにあふれている。だからこれに触発された有能な作り手が「俺の手でいまの時代に活きる俺のファウンデーションを!」という気になるのはすごくよくわかる。 田中芳樹自身にその経験がなくとも学生運動の季節、思想、感性が作品に与えた影響は明瞭に見て取れるし、また、宮さんからすれば何でもわかった風な預言者ハリーセルダンがひとつの傲慢の象徴、打倒すべき肉塊として西方の果てにあるそれを征服破壊する話になる(つまり帝国、人類文明の復興なんて理想に宮さんは与しない)のもうなずける話だ。 そして三体においてもハリーセルダン役はむしろ三体皇帝側に付与されている感がある。そして、その絶対倒せない強大な力や公理(宇宙社会学。黒暗森林理論)を超克するものが果たしてあるとしたら? 劉慈欣の情熱もその造型に能く注力されているように思うのだ。
 
 
 

ダイナゼノン讃

 ダイナゼノン良いなあ。 二話がすごい良かった。腹の底から爆笑した。珍しいことだ。最近のアニメでは「実はそんなに面白くないけどこっちから歩み寄って敢えて笑ってあげる」みたいなことが習い性になってたから。 雨宮哲監督の演出が前作から更にブラッシュアップされているのを感じる。実にうまいひとだ。テンポが凄くいい。肌に合う。 全員一緒にしゃべるんで何言ってんだかわかんない演出。「エロい話じゃないです」。「じゃあもう、就職じゃん」。風呂。メシ。全部笑った。編集点が食い気味なのが良いのだろう。 リアルってなんだろ? ってことにこだわりがあるよね雨宮氏は。前作ではそれが「コンビニ袋いっぱいの汚れた硬貨」であり頭髪の悪臭であり。その探求は本作にも引き継がれている。破壊された町並み(阪神淡路の内臓破裂した三菱銀行)。ぐっしゃぐしゃの引きこもり部屋。よもぎ君ちの物いっぱいの居間(客人がメシ食ってる同じこたつでおばあちゃんが突っ伏して寝てる)。 一話の戦闘シーンが合体変形したよもぎ君のコックピット視点からどう見えたかリプレイした二話冒頭の演出、意外にロボット物では初めてなんじゃないだろうか。迫る怪獣。迫りくる別の合体メカ。合体メカに搭乗することのリアル。 グリッドマンシリーズのフォーマット、型を自ら確立規定したのがまた面白い。 ヒロインと呼ぶのがはばかられる黒タイツのメンヘラくそ女。 平日の昼間っから街をウロウロしてる風貌がおかしいおとな。 前作キャリバーさんを凌ぐ危ないひとキャラの傑作がまさか生まれるとは思わなかった。ガウマさん最高。「あしたまたここで集合な! お前ら絶対来いよ! 来ないとお前んち行くからな!」。風貌顔貌は完全にヤク中の危ないひと。それが各人に船とか車とかのオモチャ渡して毎日集合かける。こんなん面白くならないはずがない。 山中先輩の風貌がラモーンズっぽいのもグー。ジャージもいい感じ。 ダイナゼノン公式
 
 

「天気の子」(2019)

正月にやったテレ朝の録画をよーやっと観た。 前作よりいい。「君の名は」の冗長な部分が刈り込まれて更に良くなっていた。新海誠はより一層進化した。 山手線の外側に立つ代々木会館。 山手線の内側、高台に立つ田端の古ぼけたアパートの窓。 山手線が取り囲む、妙に坂が多く入り組んだ不思議な街。 過去作にも見られた東京という土地(パブリックイメージのそれとズレがある)への愛情が全開。 新海誠特有の「空気遠近法を使わない、精細でビビッド、ほぼ写真データそのままを置換した東京」は逆に色鮮やかな異世界だ。 新海が君の名はで大成功を収め更に多くの企業がその名声に安心して乗っかってきたことも作品にむしろいい効果を与えている。実企業名は異世界、亜東京に圧倒的リアリティーを与え、そして過去作の如くわけのわからない展開てんこ盛りにするわけにはいかないプレッシャー、社会的責任(パトロンに対する)、縛りを作者に与えるからだ。 代々木会館の使用は2020年に傷天を復活させる試みでもあり、それは見事に成功している。ほぼ社会的意義を持たない東京の浮草稼業、その日暮らしの奇妙な愉悦、解放感。 しかし、至福の時間はやはり借り物であったことを容赦なく教えにくる現実。 大久保、新宿、代々木と延々線路を走らせるクライマックスは素晴らしい(新海がこの界隈に格別の思い入れがあることは過去作からも明らか)。それだけに、代々木会館で余計な掣肘を入れることはなかったのにな、とやや残念。あの勢いで一気に屋上まで駆け上がらせて欲しかった。オトナ帝国演出を踏襲して欲しかった。 終盤やたら「十秒ごとにハッと気づく」新海の悪いクセも出ちゃっててちょっとげんなりしたかな。 世界の危機を救うために身を挺するカビの生えたクリシェと遂に決別し得た作劇はエポックメイキング。 二年のズレ、ほんとは逆、は前作を踏襲したうまい工夫。 「先輩」のプレイボーイっぷりがまさか見事回収される伏線だったとは思わなかった。うまい脚本。あれはナウシカオマージュでもある(「星を追う」よりはるかに成功しているオマージュ)。 また鳥居ですか。神道ですか。という不満もなくはないがそれをもって新海ひとりを責めるのはもちろん公平を欠く。漫画、アニメ、世界中の安手のサブカルに瀰漫する安易な神秘主義だから。そして、これがさすがに手垢のついた手法であることに新海が気づきその先を
 

「E.T.」(1982)

イーティーをいま頃観た。去年秋の金曜ロードショーの録画をいま頃観た。1991年金ロー放送のリマスター版だ。 んー。 これはイーティーという名の宇宙人だ、というのをみんな知ってるのにそれを知らないふりしてクッサイ演技してる下手くそな子役たち。そんなふうに見えちゃった。演出が下手。ホン(脚本)も良くない。ほんとにスピルバーグの映画? ってなんか驚いたしガックリきた。すっげえ退屈。 話としては怪異譚。それに現代的粉飾をまぶした。そんな感じ。 嫉妬深いことで有名な宮崎駿だが、「となりのトトロ」はこれへのアンサーな気がする(カリオストロはスターウォーズに対してのそれ)。「怪異譚だろ? 下手くそめ。俺ならこう撮る」と。んで実際トトロの方が出来は良い。別に宇宙人である必要ないんだから。森の怪物で十分。実際エリオットたちも森にこだわってた。宇宙のスケールから言えばコンタクト地点があそこである必然性などゼロなのに。 浪川大輔の棒読みへたっぴい加減のみならずもともとのエリオット役がやはり下手くそなのも見ていてつらい。 死にそうなイーティーのそばで「そんなことしちゃ駄目だ! ほっといてよ」とうるさく叫び続けるエリオット。どう考えても必死に救命措置を施す大人たちの方が誠実で頼もしく愛に溢れている(マスクを取る表情からも、政府機関の目的は地球外生命体との平和的接触にあることが感じられる)。エリオット、ただのクソガキ。 鍵束のひとが実はいいひと、いう展開は良かったね。あれは「未知」のラコーム博士とキャラクター的にはおなじ。「十歳の時からこれを待ってた」のセリフから至純の魂を持つのはまさにこのひとだとわかる。エリオット、ただのクソガキ。 長いよな。三十分でいい話を薄めて二時間にしてる。クライマックスの飛翔を際立たせるためには中盤のあれは必要なかったはずだ。意外性が薄れてしまった(時代的に仕方ないとはいえ光学合成丸出しなのも興ざめ。それに、なんで漕ぐ?)。 政府の重要ミッションのさなかだいうのにこども、奥さんをあんな自由に泳がせてんのも変。やっぱ演出が弛緩してる。スピルバーグがメガホン執ったにしてもまあいつものやっつけ、3日くらいでたいした思い入れもなく余技で撮ったんじゃないか、とか思う(早撮りは彼の習い性)。 ジョンウィリアムズのスコアが素晴らしいのでそれがまたフィルムのみすぼらしさを際立たせて