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「ダンケルク」Dunkirk, 2017.

 今日時点のブルーレイ価格、973円。 アマプラで 観た。 大向うを狙ってないのが良かった。ノーランはこういう、史実ベースの話を淡々と撮る方が向いてるんじゃないか。ブラックホールとか時間旅行とかたいして知りもしない分野(関心が本当にあるのかも俺は疑っている)を一夜漬けの即席勉強で撮るのよかずっと良い。 ただいつものノーラン節はあって、時系列の混交。トロッコ問題。 叙述の意図的な前後はパルプフィクションの影響なのか? まあ不思議な効果はあって、「ああ、さっき空から眺め下ろした海上の光景はこういうことだったのか」という答え合わせ的な面白さはあった。 ただトロッコ問題への拘泥はどうなのか。それ必要? と思う。後味が悪くなるだけだ、と思う。偶然出会ったあの三人が生き延びる努力を協力しながら地味にやっていく、それだけでも十分にドラマであるのだからわざわざ何か(それも「これは哲学的な命題なのだよ」とノーランがドヤってる気味合いの)を足さなくてもいいのでは? と思った。 船内の温かい毛布、食事に背を向けて極力誰とも口をきかないようにしていた彼(を含む三人)と、海上で漁船に拾われ色々みっともない振る舞いに終始した彼とは「ダンケルクから逃げたい」という方向性においてまったく相同であるのに後者だけことさら卑怯で臆病で悪者に描いた(というかそういう人物を作った)のもなんだかなあと。嫌な後味が残る。必要なエピソードだったのかな? と思う。そういう史実がもしあったのだとしても。 なにかノーランの中にそういうもの、トロッコ状況への偏執、こだわり、こだわらざるを得ない個人的な情念、事情、理由、があるのだろうなあと思う。まあ彼が監督なんだから、そういうものを盛り込みたいのならそれはそれで仕方がない。 勿論あの燃料を失った戦闘機が独軍機を屠(ほふ)ってみんなを絶望から救い、諦めることなく着陸するエンディングは文句なくよかった。 頭を打って死んだ少年、彼の顔がとてもよかった。ああいう「普通の顔」をした役者さんがもっと増えるといいなと思った。 好きな監督ではない。しかし「絵」力、引き込まれる画面の迫力、その魅力は正直に認めざるを得ない。 ウィキペ

「TENET テネット」Tenet, 2020.

 ブルーレイ、本日価格で973円。世上のウケは芳しくなかったのかもしれない。 アマプラで観た 。 繰り返し観るとどういう話なのかよりわかるとは思うんだけど、まああんまそういう気になんないね。時間逆行というテーマをかなり無理くりに映像化してるんで、疑問点とかの解消にはたぶん至らない。矛盾、不整合は承知の上での企画だろうから。 その設(しつら)えの上に走ってる人物たちの行動、映像があくまでこの映画の肝(きも)だろう。そういう意味では飽かず観ることができた。WW84とはえらい違いだ。 キャサリン(エリザベスデビッキ)がなんといっても素晴らしかったね。俺の好み(長身美女)でもあるし。その魅力をコスプレショーも混じえて描き尽くしたことについてはノーランを評価したい。好きな監督ではないが。 誰を殺したいって夫よ夫! という望みをきちんと叶える映像体験で世の奥さんたちも大いに溜飲を下げたことであろう。 「主人公」はいつの時点で時間逆行施設の存在を識知したのか。なんだかいつの間にかそういう荒唐無稽を受け入れいつの間にか時間対応軍隊が出現し。なんだかそこらへんが不分明であったが見返して確認すんのは面倒だな。 ウィキペ
 

「ワンダーウーマン 1984」Wonder Woman 1984, 2020.

ブルーレイ、本日価格960円w まあそうなるよね。   アマプラで 観た。 いやー、なんかひどいね。 これもあれなんかな、出資サイドからの要請があったのかな。長くしろ、と。二時間半は要らないだろ。午後ロー尺(1時間半)に編集した方がむしろ面白くなるだろ。 無能なひとの仕事をずっと見させられてる感じね。一秒でできることをわざわざ遠回りに5分10分かけるひと。 この考古学者はダサくてモテなくて友達がいません、っていうのはもう登場30秒で十分わかったわけ。でもそれをなおも30分説明し続ける。クドい。お婆さんの長話か。 んで、もういちいち列挙することはしないけれども、矛盾やら不統一やらが甚だしいのね。謎の石、勝手に持ち出したよね? 同意の上貸したシーンはなかったよね? 金のアーマー、家に一度立ち寄ったの? 1984年のオフィスにパーソナルコンピューターは普及してないよね?(アップルのプロトタイプとかそういう話はなしね) プログラムを書き換えて乗っ取る? ブラウン管のテレビ受像機にプログラムなんか走ってねえよ。 頭がQ界隈で「世界緊急放送」なる与太(一度も行われたためしがない)がずいぶん流行ったけど、元ネタこれでしょ。陰謀論界隈でいちばんムカつくのがこれね。自前の妄想ならまだ「君はSF作家になれる!」と感嘆することもあろう。あいつら、必ず、必ず、百%、「安手の映画で見たネタをそのまま、修正もなんもなしに」だから腹立つんだよ。知能どころか想像力創造力も欠如。なんもないひとたち。 まあそういうののエサにしかならんバカバカしい映画でしたね。 1984と銘打ってるのにそこの描写に重きを置いてる感もあんまないんだよね。じゃあなぜ? という。 あの姐ちゃんが魔法の力で真逆に変わる! って話だろうになぜかブサイクなまま。イメチェンした服装も有り体に言ってダサい。1984年なんか舞台にすっからだよ。完全に裏目。 無駄に長い花火。「待って、いい考えがある!」「上から見下ろすのね! あなた天才だわ!」バカですかと。いつまでそこにいるんだ。 上から見下ろす花火、雲がぼんやり光るだけだし。でもなんかウットリ色惚けてるダイアナさん。 気密服もなしにジェット機乗るんですか。燃料どこまでもつんですか。 なんで操縦できるんですか。 今生の別れ、のカメラワークというか演出基本というかそういうのがダメダメ
 

「狼よさらば」Death Wish, 1974.

アマプラ リンク  午後ローの録画をいま頃観た。 先日観た ジョディーの「ブレイブ ワン」 という映画とまったくプロットが同じだった。結末に至るまで。つまりこっちが先なのだ。 そしてブレイブワンがそうであるように、これも当然バットマンの誕生、スーパーヒーロー物の第一回となっている。ただしきな臭さが遥かに濃い。銃、自警団の礼賛にとどまらず法、警察の不正まで容認するところまで行っている。 途中まで、就中(なかんずく)警察署のシーン(名探偵登場。会議室でなく雑然とした執務室で服装、人種、性別の混交した署員が立錐するその感じがニューヨークっぽい。これ、ダイハード3に影響してんじゃないか)などとてもよかった。のが、その直後からなんだか急激におかしくなってくる。令状もとらず無断で留守宅に侵入捜査(この時点で押収物が証拠能力を失うのはいくらなんでもアメリカだって一緒でしょ?)。検事は「まあこの件はなしにしようや。その方が犯罪が減っていい」言い出す。あげく「拳銃は捨てとくからお前よそ行けや。それでチャラにしてやる」。西部劇か! めちゃくちゃだよ。デュープロセス完全無視のイリーガル対処。 「狼よさらば」「え?」「考えろ」。考えたけどわかんねえよ。しかもなんで最後それを警官が知ってたの? おかしくね? 法に拠らず悪を裁く! というダーティーハリーの先駆で観客は喝采しただろうけど、当時にあっても問題作とされただろうことは容易に想像できる(追記: ダーティーハリーは1971年。先駆ではなく影響下にある)。 ブロンソンの映画を実は初めて観たけど、前半の静かな知識人役などむしろハマっている。なるほどこういう役者さんなんだ。 ウィキペ
 
 

「ドライブ・マイ・カー」Drive My Car, 2021.

  アマプラのインターナショナル版 で観た(そうでない版との違いをいま知らない)。 アカデミー賞を取るような格調高い三時間の映画、ということで相当の退屈を覚悟して観始めたがそれは全くの予断と偏見、杞憂であった。まずもって面白いし、また「賞を獲って当然」とも思った。氾濫する愚にもつかない暇つぶし映画ではまったくない。村上春樹の原作が良いのだろうし、映画化にあたっての演出もおそらく素晴らしいのだ。 開始40分後にタイトルが出る。それは流行りのハッタリではない。ここまでは序章、物語はここから始まるのだと明確に示した正しい位置のそれである。 楽屋に現れた岡田将生がまったくもっていけすかない若いイケメンを見事に体現しているから観る者みんなその後の展開が見えている。ああ、こういうドロドロ愛憎劇、愛の修羅場をこれから三時間延々見せられるのねとうんざりしかけたところでぷっつりと物語は転調する。 そして登場するハードボイルドヒーロー。タフガイ。フィリップマーロウ。瀬戸内の古民家で優雅にMBAを叩く舞台演出家という、ある種この世の成功者である彼を一瞬で腑抜けた文弱に見せてしまう、それだけの修羅をまとったそのドライバーは23の女の子。ライターをいなせに受け取り紫煙を燻(くゆ)らす。 チェーホフの本読みで役者に要求されるメソッドがそのまま劇中の渡利(わたり)みさきに適用され効果を上げている。彼女が感情豊かに、慟哭しながら己れの不幸をかこってしまったらこの映画は台無しである。母親に心を扼殺され表情と感情を喪くした少女の佇(たたず)まいを三浦透子は完璧に演じている(俺は「流星ひとつ」を思い出す。旅芸人の家に生まれ暴力混じりの強制で歌唄いロボットにさせられた人生。藤圭子が沢木耕太郎に語った半生は渡利みさきのそれに酷似している)。 劇中劇のチェーホフが手話を含む多国籍多言語劇であることも無意味ではない。これをポリコレ表現と見て揶揄する者もいるだろう。「こういうんじゃなくて、もっと普通にやればいいじゃん」。であれば、そのポリコレとやらのおかげで「表現」は行き止まりの閉塞から光明を見い出したというべきであろう。普通という篩(ふるい)が取りこぼしてきた可能性。豊穣。沃野は無限に拡がっている。いままで見て見ぬふりをしてきただけなのだ。 役者三浦透子の頬にもともと傷があるものか俺はいま知らない。しかしも

「ゴッドファーザー」The Godfather, 1972.

  アマプラの吹替版 で観た。 2,3,1の順番で観てしまったけど、やっぱ順番通りに観るべきだったねこれは。出来、迫力はこの最初のがダントツ。2は1のセルフコピーだし3は要らんつけたりだったし。1を観た上でわかるシーンが2,3にはたくさんある。ああ、このエピソードに対応してんのね、とかが。 本作の白眉はなんといってもマイケルの敵殺し、その打ち合わせから実行に至るまでのシークエンスだろう。妙に生々しさを感じるのはもしかしてベースに現実の事件があるから? 観客は作戦がうまくいくのかマイケル目線で一緒に没入する。 シチリアに逃亡っていくらなんでもそりゃ簡単にバレるだろうw しかもなんだよ一目惚れってw いや、逃亡先で現地の女とよろしく、ってのはヤクザとして不思議じゃないけど付き合ってもいないのにいきなり結婚はねえだろう。なんだか頭のネジが外れてる。ダイアンキートンのことはどうでもいいわけ? で、全然無口だった女が結婚した途端調子乗りになってそのまま爆殺! そういう犠牲要員としてだけの登場があからさま過ぎて「このエピソード要るのか?」と思った。 で戻ってまた教職のキートンと復縁しようてなにそれ。一旦捨てたくせに。他の女と結婚したくせに。女世の中よおけおるんやから他の女探せや。カタギの女をヤクザ稼業に巻き込んで以降このひとはずっと彼女を苛(さいな)み続けることになる。 ロバートデュバル扮するトムヘイゲンの存在感がやはり素晴らしい。主役級と言ってもいいのではないか。その不在がやはり3を寂しくしている。描くべきことが何もないのだ。 ウィキペ の記述が滅法面白い。当時落ち目で役をもらうべく自分を安売りしたマーロンブランド。二時間に仕上がったフィルムをパラマウントの要求で水増しせざるをえなかったコッポラ。なるほど、それで余計と思われるシーンがままあるのだなと納得。

あしたのジョー2最終4話を観る

 ダブルダイナマイトさんの「あしたのジョー2全話振り返り解説」がやたらめったら面白かったので、 アマプラの最終4話 だけとりあえず観た。 終盤はほぼ劇場版と被っていることもあって杉野昭夫氏の全作画が素晴らしい。完璧に近いリマスターの威力も相俟っていまでも充分見れるクオリティーだ。 矢吹丈の性欲欠損について考えてしまう。恋愛を解しない朴念仁なのはまあいいとして、彼に性衝動がまったく見られない不自然が気にはなっていた。 これはたぶん物語上の要請、必然があったような気がする。高森朝雄が自覚的であったかはともかく。 施設を脱走した天涯孤独の浮浪児で勿論生存の要請として当然に盗癖はあり暴力衝動も過多である。その彼に思春期通常男子の性欲も許してしまうとたぶん矢吹丈の物語は拳闘家ではなく連続婦女暴行絞殺魔。永山則夫の生涯になってしまう。 丹下段平と共にリングを目指すためには、どうしても彼を性欲欠如の一種の不具、畸形的青年にする必要があったのではないか。 その結果あの白木葉子とのある種ストイシズムの極限とも言える名シーンが生まれたわけだが、それはまた同時に「こんな奴は存在しないし、いたとしても長くは生きられない」ことの証左でもある。 パンチドランカーで命を縮めた? いやたぶん、丹下段平に出会えなければ、ジョーの命はもっと短かったのではないか。ボクシングに出会うことで、むしろジョーは長生きできたのだ。そんな気がする。 白木葉子の顔がいちいち気になってしまった。ひたいが妙に狭くおもなが。そしてなかんずく髪型。ああいうヘアスタイル(オールバック長髪)はちょっと物理的に不可能ではないか? 昔の時代劇でくさり鎌とか振り回すなんたら一刀斎的な、はげ長的な変さがある。 ちばてつやも高森朝雄も杉野昭夫も出崎統も、女性の服飾には不案内だったのだろう。まあ当時の少年誌なりアニメーションの水準から言ってそういう時代だったろうし。 しかしダブルダイナマイト諸氏が語るように女性心理の機微の描写は抜群。漫画のアニメ化にとどまらない凄絶な深みに到達していた。 てらさわ氏が言ったように、「ちゃらちゃら、ぜんぶ一旦御破算! 結婚とかもう全部なしにしてさ、みんなでなかよくやろうよ!」。ひたむきでもなんでもないモラトリアムな、面倒は全部先延ばしにした、そういうジョーの、のりちゃんの、白木葉子の物語もあり得たのではな

「ゴッドファーザーPARTⅢ」The Godfather Part III, 1990.

amazon prime「ゴッドファーザー<最終章>:マイケル・コルレオーネの最期」  午後ロー181226の録画をいま頃観た。 パート2(1は観てない)を観た上で言うとちょっと気が抜けた感じがあるかな。特に語るべきこともないコルレオーネ一家の後日談、そんな感じがした。2の出来が良過ぎたのだ(歴史感、重厚感)。 マフィアと癒着したバチカンの腐敗なるものが描かれていて「え、いいの?」とか観客ながらに老婆心が出てしまった。でも「その腐敗を根絶する気満々の新司教爆誕(&腐敗勢力に殺され)」という流れだったので映画の構造的にバチカンからの抗議はかわせるようにはなっていたのかな、とも思った。それともこれに似た現実の事件でも先行してあったのだろうか?(追記:  wikipedia に拠ると確かにそうらしい) コッポラの娘の造作がまあアレで「ああ、ねじ込んだのね」とか思ったが観ていると演技は意外によかった。特に「惚れた男にあからさまにつきまとうギンギンに発情したメス」感をリアルに出せていた。現実にああいう光景を見たことがあるので「うん、こういう感じだよな」と頷いた。 1990年の作品。2からずいぶん空いたんじゃないの?(追記: 16年) そこらへんも勢いを失った感の理由なんだろうなあとか思った。
 これはうまい。リピ商品。
 

「トップガン マーヴェリック」Top Gun: Maverick, 2022.

 前作の面白さがあんまよくわからなかった(し軍に阿ったリクルーティング、情宣映画の色彩が強いと思った)んでなぜこの続篇が結構盛り上がってた(少なくとも俺のツイッタータイムライン上で)のかもいまいちピンとこなかった。 レンタルで一応観た。 タイトルロールでブラッカイマーの名を目にして早くも萎える。 海辺の大衆食堂シーンが長くてなんかやんなっちゃった。俺の苦手な青春群像ものじゃないですか。興味ゼロ。 つかおかしいんだよね。トップガンの精鋭っちゅうことは現役のエースパイロットなわけでしょ? どいつもこいつも新兵の顔してて、しかもそれが他国侵攻作戦としては相当に攻めてる重大任務に就くって。 ウラン濃縮工場てそんな爆撃とかして大丈夫? 実写版スターウォーズだったね。変な言い方だけど。トレンチラン。プロトン魚雷。 トムクルが撃墜されてからの付録っぽい件りがむしろ面白かった。消火作業でてんやわんやの滑走路。作業のふりして戦闘機強奪。木の葉返し的動きで後ろを取る敵戦闘機、敵パイロットの描き方など、「高い技倆の者はそれだけで尊敬に値するのだ」感。嫌味なあいつが危機一髪を救ってこじれた感情がほぐれる結末もとてもよかった。 青春ドラマ&食堂おばちゃんとの恋愛全カットして1時間40分作品にしてもらうとグッとよくなると思いました。 驚きはメイキングを見てからで、自分でスタントやりたい病のトムクルのみならずトップガンズ面々の俳優さんも訓練受けて実際に飛ばしてのその映像なんだと! まさかトレンチランはやらしてないとは思うが(やったの?) そこまでの努力を注いだ迫真の映像! っていうほどには見えなかったのがまあ驚きである。グリーンバック合成でもよかったんじゃない? とか思っちゃった。 ウィキペディア
 ごはんですよスティックは便利。
 

「シン・ウルトラマン」2022.

 アマプラの配信が18日から始まったので観た。 うん、ふつーによかった。 まず冒頭と末尾の処理がよかった。 映画一般のなにがつまらないってだいたい最初の二十分くらいでくだくだしく人物、作品世界を説明するところにある。迂遠なドラマ仕立てで(朝ごはんとか食わせちゃったりして)。非常に退屈でダレる。だったら! もうカンカンカンと文字で、止め絵で全部言っちゃおうと。1分くらいで。これはなかなか思い切った、割り切った演出でよろしい。 そして末尾も。青空やら夕日やら決意表明やら、余韻たっぷりのクリシェを全カット。なんか知らんけどパッと帰ってきた! よかった! 終わり! この潔さ。よい。 二番目によい所は音楽。オリジナル音源でほぼ通したのがとてもよい。 こういうときにやりがちなオッサン仕草が「ヤングに受けるナウいサウンドを」。その慣れない努力が作品を短命にする。ほんの数年で「プッ。ダサい」となる。その弊を免れている。賢明な判断。 三番目によいのはまあまあの短さ。1時間50分。要素山ほど詰め込んで二時間半、とかじゃなくてよかった。 フェティシズムの映画でしたね。ビジネススーツ女子への偏愛。シンゴジのときに既にほの見えていたが今回フルバーストで突っ走った感じだ。なんせ巨大化までさせるし。それを下から舐めるように撮る。ほぼ盗撮の目線。果ては風呂に入らせず匂いを嗅ぐ。メフィラスさんの変態呼ばわりも至当としか言いようがない。 本作においてザラブたち外星人は「三体」で描かれた宇宙社会学を基本、共通認識としているように見える。物騒な社会観である。曰く「知的生命体をよその星に見つけたら即刻駆除せよ。殺られる前に殺れ」。相手が知的、科学的に数千、数万年遅れていることは安心、躊躇の理由にはならない。技術爆発。知的生命体は油断しているわずかの間にこちらを凌駕する可能性があるのだ。 なんと光の国もとい光の星もその銀河常識に与している。地球を守る正義の星でもなんでもないのだ。ゾフィーはおろかそもそもウルトラマンもそういうつもりで地球に来た。曰く、裁定者として。 裁定者と言えばナウシカ七巻の巨神兵。推進原理も同じ(空間を捻じ曲げて飛ぶ)。確かにそういう飛び方(勢いなどつけずいきなりスッと上昇)が映像化されていてとてもよかった。 ラスト、6秒の勝負もよかったね。映画史において前例は案外なかったりするんじゃない

「仮面ライダーブラックサン」2022

 演出はまあまあひどいし脚本も練り込みが足りない。力足らずの役者さんもいる。学生自主映画のようにぎこちない間が、空白が、スが入る。テンポも悪い。 でも、しかし。 これはテレビでは不可能な、配信で可能となった野心的試みであり相当に攻め込んだ内容であることは間違いない。 見まいとしてもSNSで容赦なく概要、輪郭は漏れ伝わってくる。曰く、「もやもやする終わり方」。なのでそれを覚悟していたら、いや、けしてそんなことはなかった。みんないい方向に俺をミスリードしてくれた。 光太郎は本懐を遂げた。葵と力を合わせて創世王を倒したのだ。納得できる堂々たるエンディングではないか。 「おじさん。戦い方を教えて」。まさか戦闘訓練の所作ひとつひとつが非常に具体的な形でクライマックスにつながるとは思わなかった。脚本に多く不満がなかったわけではないがこの件りは文句なく見事であった。 勿論「もやもやした」理由はわかる。ゴルゴム党は首をすげ替えただけで政権与党の座を守った。怪人差別は変わらず続いている。だがその理由は、俺たちの現実がまさにそうだからだ。監督は悪が倒れ平和が戻ったなる偽りの大団円を許さなかった。葵はリモートで国連に登壇し人々を真正面から面罵する。「いまへらへら笑って見てるお前! お前が差別を許してるんだ! 悪はお前だ! この世を地獄にしているのはお前らだ!」 彼女は銃を執り武装する。一片の妥協もなき世界革命戦争を準備、開始するために。それを批難、批判するのは容易い。ならば言おう、君らお得意のセリフで。「対案は?」。なおも言おう。君らは笑っていたではないか。デモで社会は変わりませーん、演説で平和は訪れませーん、と。だから彼女はサラコナーになった。「相手を殺す気でやれ!」と教官は戦士を叱咤する。デモを請願を演説を一顧だにしなかったお前ら差別主義者に、右でも左でもないフツーノニホンジンに、葵を責める資格など一片もありはしないのだ。 彼らの戦いは我らが受け継ぎ、我らの戦いは君らが引き継ぐ。 我らは遠くから来た。そして、遠くまで行くのだ。 全学共闘会議の、忍者武芸帳のスピリッツを2022年に堂々圧し出した監督の心意気を、俺は全面的に支持する。 満洲から続く堂波家三代目がいとも簡単に斃れた。その情景はつい先日我々が現実に見た光景そのものだ。このシンクロニシティーは単なる偶然か? そうではないのだ。
 
 半年ほど下駄箱にしまい込んでたadidasのSuperstar、履こうと思ったらトウのシェルと底のゴムが真っ黄色。わー! と哭きが入ったが外に履いて出たら多分五分とかからずに元の白さに戻った。 外気のおかげ? 日光? ググると「ソールのゴムは太陽光で黄色く変色する」とか書いてあるんでもうどっちなんだよ。 まあともかく結果オーライ。お気にの靴は大事大事に保管などせずどんどん履き潰していくべきだね。それが今回の教訓。 adidas SUPERSTAR
 
 
 

「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」2021.

  かなり良い。これは予想を裏切られた。 正直気が進まないまま観始めたのだ。いわゆるファースト原理主義者(になるつもりは別になかったのだが)だから。ともかくゼータ以降が幼稚でことごとく技術的映像的にも退歩退化してるようにしか見えなくて。だからこれもそういう一群の、いかにもオタク臭いものかと思ってたら。 ファースト(及びコミックのオリジン)以外で感心するガンダムに出会ったのはこれが初めてじゃないか。 非常にスタイリッシュ。キャラデザ、作画もいい。コックピットのモニタ視野が素晴らしい。 人間が地上にいる至近でのモビルスーツ戦のリアリズム。降ってくる溶けた金属。 ラストの一騎打ちなども演出にある種の思い切りがある。すなわち、戦闘をわかりやすく見せることの放棄。勝負は一瞬に、わけわかんない状態で決する。ならばそのわかりにくさ、わからなさをゴロリとそのまま皿に載せて提供すればよいのではないか。というコペルニクス的発想。 いや、観始めたときは暗澹たる思いにとらわれたのだ。いきなりいちばん大嫌いなアニメ的クソ女が出てきたから。おとな舐めくさって組んだ脚でセックスちらつかせるタイプ。またこういうのかよ! と思ったら、これに処するハサウェイがよかった(百パーよくはなかったが百パーいいと映画は20分で終わる)。「きゃー!」「ご、ごめん!」赤面する主人公、という5兆回は繰り返されたようなクリシェをひとつずつ丹念につぶしていく。「あー、もうそういうのいいから。業界でラッキースケベって言うんですか? 育ちの悪い下品な女だ。俺ァメンヘラの馬鹿女にはさんざひでえ目に遭ってんだ、もう懲り懲りなんだよ!」。とてもよい。そのあと助けたりしなければもっとよかったけどそうするとやはり映画がすぐに終わる。ここで負い目をつくったから、仲間を捕られるはめになったから、大将自ら大将機で取り返す展開になっていく。 そうして帰投したパルチザン(マフティー)基地の雰囲気。これが素晴らしく気持ちいい。活気に溢れ士気が高い。マフティーがいかなるものか説明的なセリフはほぼないが、政治教義など語らずとも彼らの気持ちの良さ、佇(たたず)まいが雄弁に語っている。けして狂信者の群れではないと。 これに先立つなんとか君との戦闘もまたそうだ。名前は忘れたが要するにこれは最新鋭機ガンダムを操る連邦の天才少年アムロレイに他ならない。その
 
 

「ゴッドファーザーPARTⅡ」The Godfather Part II, 1974.

 午後ローの録画180830【前編】と180831【後編】をいま頃観た。日付からすると夏休み最後の日の昼下がりゴッドファーザーを観た小学生中学生がたくさんいることになる。彼ら彼女らはいったい何を感じたのだろうか。 手元にある午後ローの録画がパート2と3しかなくてこうして2から観始めた。最初のを観てない。2を観終わった感じで言うとたぶん最初のは老人ヴィトーコルレオーネ=ゴッドファーザーをマーロンブランドが演じる(それくらいの情報はかろうじて知ってる)のだろう。ゴッドファーザーの、縄張りを守るためなら血で血を洗う仁義なき戦いが描かれ、王子マイケルがその父に反発しながらも、修羅の帝王学を王から学んでいく。そういう物語とみた。 2では、お世継ぎの帝国防衛戦が描かれている。敵であるユダヤ系ギャングハイマンロスとも賢く手打ちをしなければならない時もある。そしてその深謀遠慮を邪魔する身内に手を焼いたりもする。 前編のラスト、裏切り者は兄だとわかるシーンのその経緯がちょっとよくわからなかった。かといってまたそれを確認するために1時間半見直す気力はさすがにない。 故郷を逐われ自由の国にたどりついたヴィトーの挿話が交互に挟まれる。チーズ屋で真面目に働くヴィトーを失職に追い込んだのは地廻りのヤクザ。職を追われたヴィトーは悪い奴に泥棒の片棒を担がされそのままその道に。みんな同郷人。貧しいイタリア移民同士が互いを食い合う屠り合うやりきれない世界。 黙示録で懲りてたのでコッポラの三時間超大作などまったく見る気にならなかったのだが、案に相違してこれはきわめてわかりやすかった。 途中いきなり政府の審問会が始まるのが面白い。映画の中に急にドキュメンタリーが挟まれたような感じ。現実のアメリカがぬっと顔をあらわす。 ラスト、ケーキを前にしての兄弟の諍(いさか)い。大学生のマイクが帝国を継ぐ意思などさらさらない、コルレオーネファミリーの一員であるよりは応召する公共性をもったアメリカ市民であることがわかる。 ウィキペディア を見るとマリオプーゾ(聞いたことある)の小説、その映画化らしい。しかしパート2はほとんどオリジナルだという。他にもマーロンブランドのわがままエピソードなど楽しいことがたくさん書いてある。コッポラが二作目制作にまるで乗り気じゃなかったというのも面白い。
 

「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」2022.

  んー。 誤魔化すのはやめよう。端的に面白くなかった。 ともかく展開が、所作がのろい(1時間48分が長過ぎ、ということでもある。この内容なら一時間でタイトに作ったほうが作品が締まったのではないか?)。予算をきちんと取れたことが、潤沢に枚数を描けるということが仇になることもあるのか? そんな感想を持った。動かし過ぎなのだ。割とどうでもいいシーンでまで。 つくづく奇跡のテレビシリーズだったのだとあらためて思う。スタッフの一致した思いはただひとつ、「メシの食える仕事をする。ヤマトにあやかる。もう貧乏は懲りごりだ」。芸術肌のひとから見れば志は極めて低かったと言えるだろう。 しかしその志の低さから、制約からしか生まれないものがある。 限られた予算。が意味するものはアニメーションの場合すなわち作画枚数をいかに低く抑えるか。だからなるべく止め絵で、アクションもバンクを使いまわして、ここぞという場面にだけ力を入れる。 完成したフィルムは「無駄な動きをしないがここ一番では安彦良和の流れるような全作画が見れる」躍動感溢れるものとなった。緩急がつくのだ。バンクも歌舞伎で言うところの見栄、「いよ、待ってました!」として機能した(カタパルト発進とか)。 しかし本作ククルス・ドアンにおいては……既に述べた通りだ。 子どもたちの描写がしつこく最後まで続くのも気になった(安彦さんが自分のやりたいことを映像化しているのはわかる。クムクムをやりたくて、そして実際やったひとなのだ)。ギャラリーになる必要はあっただろうか? ないのである。 本作についてはある期待があった。つまり最近の安彦氏の著作(漫画及び対談集、回想録)からうかがえる思想的な変遷、深化、そういうものが反映されるのではないか? ザクを海に投げ飛ばしてさあもうこれで安全ですよ島は平和ですよという結論のままでいいのか? いや、それはよくない、無責任に過ぎる! と安彦氏が思ったからこそあえてのククルス・ドアン。オリジナルとは真逆の改変を行うのではないか? そんな予感があったのである。 蓋を開けてみればまったくおなじで……あれっ? というのが正直なところ。 弾道弾をガンダムが追っかけて破壊する展開にならなかったのもせっかく準備されたコアブースターの持ち腐れな感じがして残念だったなあ。クライマックスにそういうケレンが欲しかった(マクベもいたのだ
 

「トータル・リコール」Total Recall, 2012.

 午後ロー160113の録画をいま頃観た。 トータル・リコールのリメイクであることは勿論ブレードランナー、ボーンアイデンティティー、マトリックスの影響も見て取れる。というか監督は大好きなそれをやりたかったのだろう。 わざわざオーストラリアから英国まで地球貫通パイプ通って出勤? 工場現地に作った方が早くない安くない? 設定や演出の難を数え上げればキリがないけど「ダグラスクエイドがリコール社の装置の中で見ている結構設定の雑な工員向けヒロイックファンタジー」として合理化できる仕掛けにはなっている。いやなってないか。夫婦も工場勤務も夢見る前の現実なのだ。 まあでも貫通列車の重厚感などCGはよくできていたのでなかなか見れた。 偉い人(コーヘイゲン)が危ない最前線に出張って主人公とど突き合うのは変だよね(いやだから夢だし)。 ぺでぃあ を見るに原作への忠実度は本作の方が上らしい。

「メカニック」The Mechanic, 2011.

午後ロー220909の録画を観た。 ジェイソンステイサムの名前に頼った似たようなアクションのひとつでしょ? くらいに決めてかかって観たから意外の感に打たれた。展開はスピーディーだし話も深いし面白い。グイグイ引き込まれる。言葉で感情からストーリーから映画のテーマまですべて喋りまくる副音声映画の逆できちんと映像で見せる。饒舌にではなく必要な情報だけ。そしてアクションも本気、リアルモード。俺の好きなトランスポーター2は確実に超えている。 冒頭のターンテーブルがちゃんと最後の見せ場になるのがよい。ターンテーブルも車も、本人だけが知る手順でセーフティーがかかるわけね。だから「触るな」と言ったしメモも残した。 原作があるのだとしたらまず原作がしっかりしてるのだろう。そしてその良さをよく映画化できている。 観終えてからも考えさせる作品だ。弟子入りを許したばかりに結局こんなことになった。しかしそうしたのは贖罪の気持ちからだ。父親代わりを務めねば、と。だがハリーの息子にそれは伝わらない。父殺しの事実だけが碑銘入りの銃として彼の内ポケットに収まっている。 「それを見抜けなかった自分のまぬけさが許せないんだろ?」死んでいたはずの男が放った言葉はまったく図星で、だから拳に力が入る。 ブイブイ言わしてるセックス(&薬物)中毒のアジア系新興宗教教祖様。のショットにはこれみよがしに巨大な壺が! 2011年時点のムーニズムに対するアメリカ人の常識がきちんとここに記録されているのもちょっとした見どころである。 ペディア 見て追記:不明にして知らなかった。72年ブロンソンの映画、そのリメイク。 コンエアーの監督(サイモンウェスト)というのも意外。あんまり、つか「ひでえ」と思った映画だから。 吹替版( アマゾンリンク )

「ゴーストライダー」Ghost Rider, 2007.

 午後ロー190818の録画をいま頃観た。 いや、もうおかしいでしょ。 自分からしつこくとりつけた約束を二度ともすっぽかす。もうこの時点で生理的に無理です。だらしなさ過ぎ。あとあれ、本のページ破くの。破くな! メモとれ! 我慢して観てたらライダーに変身してからは面白かった。この部分だけでよかったのに(つまり俳優ニコラスケイジが必要とされない)。 アクション以外のお話部分がともかくお粗末だったね。 エンディングは実質「三度目のすっぽかし」でもう怒る気にもならなかった。「やるこたやってくれたんで契約終了っす。お疲れっす」「だが断る!」いや受け入れろよ。なんで続投? 女どうでもいいの? だいたいお前の意思は契約に影響できるの? カータースレイドが「最後の変身能力」を使ってあそこまでついてきたのもイミフ。え? なんのために? んでなに、帰るの? 変なの。 ピーターフォンダが出る理由はあったみたいだけど、なんかもったいねえなあとしか。バイク以外にイージーライダーとカスる部分はひとつもない。映画という文化もまた退化するのだなあ、と。栄華を誇った文明と同じように。

AMD, Radeon, Adrenalin, pa-300.

 アドレナリンなんちゃらが立ち上がらず(ビデオの明るさ調節ができなくなる)、こんなんが出るようになった。 言われた通りのアドレス https://www.amd.com/en/support/kb/faq/pa-300 に行くとAMDの処方箋がある。しかしこの通りに(ドライバの自動アップデートを停止する)やっても結局翌日とか二、三時間後にはAMDのディスプレイドライバが勝手に入ってまたグラフィック調整のソフト(アドレナリンなんちゃら)が立ち上がらなくなる。メーカーのカスタムドライバ云々の方向性で解決しようとしてもLenovoのツールはそういうのを下ろしてくれない。要するに症状が改善しない。 ググってみるもんで解決策があった。 RDNA以降のRadeonでAMDディスプレイドライバーがWindows Updateで上書きされる現象を解決する 「RDNA以降の」と但し書きがあるが俺のVega世代(Ryzen 5750G搭載)GPUでもまったくおなじ症状。書いてある通り「Windowsが勝手に拾ってくる旧ドライバを敢えて併存させる」方向で処置したら見事症状が収まってくれた。 解決したはいいものの釈然としない。インテル時代にはこういうグラフィックドライバ周りの不具合は皆目なかった。自分でこうやって苦労して調べて修正パッチを当てねばならないというのはどうにも納得が行かない。しかもAMD推奨の方法はまるで効かなかった。最新ドライバをwindowsが正規ドライバと認識せず旧ドライバを引っ張ってくるというのはつまりAMDとMicrosoft間の連絡がうまくとれてないということだろう。そしてドライバトラブルは他にないのだからおそらく落ち度はAMDにある。不安である。 次買うのはインテルに戻そうかなーみたいな気持ちにはなってる。

「ミスト」The Mist, 2007.

 午後ロー170314の録画をいま頃観た。 映画のプロットはスピルバーグの宇宙戦争(2005)とまったく同じである。キングもダラボンもスピルバーグもウェルズの宇宙戦争(小説や1953年の映画)に影響を受けたのだろう。両者とも現代劇にしてはなにかしら古臭い。山奥で行われてる軍の秘密実験、とかね。いかにも50年代の子供向けパルプフィクション。オマージュとしてあえてそう作ってあるのだと思う。 外の怪異と同じくらい敵となるのは教育のない田舎っぺ(ヒルビリー)なのもスピルバーグのそれと同じ。本作では統一教会ばりの宗教右派ババアも加わってこれは見事に2022年初頭の頭がQな連中による首都議事堂占拠事件(や敢えて言えば本邦夏のあれ)の完全な予言となっている。死ねばいいのに! と心からみんなが思った韓鶴子もとい聖書ババアが撃ち殺される展開は非常に良かった。「済まない、つい撃ってしまった」「いいんだ、助かったよ」。爽やか! そして最後のクライマックスでミストである、霧である理由が立ち現れる。先が見通せない、一寸先がわからないから。軍の反攻が成功している(これも宇宙戦争と同じ。合衆国軍隊の戦力で割と異星人とかと戦って勝てるという)のにそれにまったく気づけないから。 間違いなくよく出来た映画(おそらく原作も)である。しかしエンディングといい虫の気持ち悪さといい、正直また観たい映画ではない。
 

「ラスト・ボーイスカウト」The Last Boy Scout, 1991.

 午後ロー150520の録画をいま頃観た。 最初の一分で「トニースコットかよ!」と嫌になり、次の5分で「あー、席立っちゃうひと出ただろなー」と思った。いくらなんでもこりゃめちゃくちゃだよ。やっぱトニースコット。 ところが我慢して観てたらこれが意外に観れた。最後までちゃんと観れた。シェーンブラックの脚本は当時の最高額で買われたそうだ。つまりホンはちゃんとしてる。冒頭のあれも終盤できちんと説明される。マフィアの無理筋の要求だったと。 ただ演出が雑なんだよね。マフィアによる白昼堂々の、衆人環視の拉致が2回以上出てくる。だから説得力が減ずる。 プールに落ちて燃えてる車を念入りに銃撃するところはとても良かった。しかしプールと車の所有者が殺されてしまうのはひどいと思った。ウィリスを見直し握手を求めた刑事が殺られるのも。 殺していいひとといけないひとがいると思う。作劇上。ましてこれはダイハードを明らかに目指してる作りなのだから、後味の悪い要素は潰した方がいい。なのにこういうのが出てくる。なにかが爽やかでない。そもそも冒頭で相当深刻なあれ(友達が奥さんを)をかまして来る。 ファミリーリユニオンの話だから最初に崩壊家庭を描く必要があるにしても、ダイハード(型のスカッとするアクション)を観に来た客のどんよりとした気持ちは最後まで晴れなかったのじゃないか。俺は晴れなかった。 トニースコットはなんかおかしいのじゃないか? と少なくとも俺は疑う。いや、これは後出しジャンケンだ。つまりこういうとこに出ているのだろう。後年の結末というか、抱え続けていた性向というか。 およそ文学、文芸作品とは程遠い作風なのに、抱えていたものはアクション活劇ではなかったという。 午後ロー版は磯部勉(日テレ版)。野沢那智のテレ朝版も存在しているからそっちも是非いつか流して欲しい。まあそれほどまた観たい映画ではないけど。 最後踊るところはよかった。初めて勝利を遂げマウンドで踊り始めるチャーリーブラウン、そんな趣があった。 ラスト・ボーイスカウト(字幕版  アマゾンリンク )

「アサルト13 要塞警察」 Assault on Precinct 13, 2005.

 午後ロー201027の録画をいま頃観た。 観始めて10分くらい経ったところで「ああこれリメイクの方か」と気が付いた。 いや、でも面白かった。どうなるんだろう? という緊張が最後まで持続して手に汗を握った。 未見で言うんだけどたぶんあそこが違うんだろうね。だからオリジナル観てるひとでも楽しめる。今度はこう来たか、と。 お色気サービスシーンもあって嬉しいのだがこれはここまで描写したヒロイン格のひとがまさか! の伏線、というかミスリードになっていてうまい。 じいさんの描き方もよい。退職を迎えた気のいい先輩、が。冒頭でありきたりのキャラクターとして登場することが功を奏している。 最後の警官すら怪しいものを感じた。消防隊もいるから思うように動けなかった、そんな感じ。 ただ振り返ると、「雪で13分署にとどまることを余儀なくされる」ことが予測できたのか? 降雪積雪がひどくならず移送が順調に進んだら悪党どもはどうするつもりだったのか? という疑問が残る。俺なんか見落としてる?
 

「バットマン&ロビンMr.フリーズの逆襲」BATMAN & ROBIN, 1997.

 午後ロー160322の録画をいま頃観た。初めて観た。 冒頭そして途中の尻! 股間! 乳首! のどアップが素晴らしい。大爆笑だ。 そして……それだけ! いいとこはそこだけ! ティムバートン以降の暗けりゃいいんでしょリアルならいいんでしょバットマンを原点回帰させるアテンプトは正しいと思うのだ。大金持ちのいかしたプレイボーイとしてジョージクルーニーの起用もぴったりだし。しかしセリフが饒舌。お話も幼稚過ぎる。カネはちゃんと使われたのかと疑うようなセットのチープさ。ブルースウェイン邸、誰でも玄関にアクセスできるしドアを開けたらそこは居間だ。 この映画の失敗がたぶんその後のバットマンを頑なに決定づけてしまったところはあると思う。つまりこの映画がダークナイトを準備した。こども映画じゃ駄目だと。やはりおとなの鑑賞に耐えるダーク路線でないとと。それは小学生的勧善懲悪から厨二病的シニシズムに二、三年進化しただけで依然おとなの映画ではないのだが(トロッコ問題とかやってドヤ顔するのがまさに)。 ひょんなことから巨万の富を手に入れパリに大邸宅を購入、その地下秘密科学実験室から相棒と夜な夜なパリの街に出撃。法の裁かぬこの世の悪を、バッタバッタとなぎ倒して行く。すべてのヒーローアクション、時代劇、そのルーツはアレクサンドルデュマモンテクリスト伯であるが、当然バットマンも直流の子孫である。であるなら、代官商人の哄笑にかぶせて高笑い、「何奴!」見栄を切ったのちチャンバラ、悪を倒してめでたしめでたし、今日もお江戸は日本晴れ。バットマンはそれでいいはずなのである。最初のキャンプなTVシリーズに回帰したかったシューマカー監督の意向は全面的に正しかったと俺は見る。 好みの問題であるが俺ユマサーマンが美人であると思えないし(タランティーノの好みであることは重々承知)。あれになんか息とか吹きかけられても「くせっ」としか思わんし。キス? 冗談じゃない。 アリシアも美人と呼ぶには癖の強すぎる顔だしなあ。 最初の映画のキャットウーマン(全身ラバー。レザー?)を超えるエロいヒロインはいまだ生まれていないように思える。 魅力的な女性が次々出てくるのにウェインもロビンもまったく秋波に流されない。不自然なくらいに! そういう作劇であればよかったのにと思う。ラバー、レザーへの偏愛は素晴らしく表明できたのだから。ホモセクシ

「ブレイブ ワン」The Brave One, 2007.

午後ロー180122の録画をいま頃観た。 つかみはオッケー、という言葉があるがこの映画、つかみで大惨事。ラジオDJの主人公、放送終了と同時に間髪置かず傍らのバッグななめ掛けして「じゃあお先」って。バイトか! 大学の講義か! 学生か! そういう感じの変な演出が随所にあっていまいち乗れない。ジョディーにこの役を演じさせるのは明らかにミスキャストで、アップで映るしわしわのお婆さん口は正視に耐えなかった。これはジョディーがかわいそうだ。 と、いう、いろんな不満が、周到なネタフリなんですなこれが。 クライマックス。はいはい、またこのパターンね。どんな悪人であろうとも裁きは司法で下す云々。はいはい、寸前で制止ね。と思ったら! いやあ、これは度肝を抜かれた。意外性のある脚本。ここに至るまでのつまらなさ酷さはつまり映画の程度を見くびらす意図的な演出だったのね(ってそんなはずもないんだけど)。 これ、なんの話かっていうと、ニューヨークシティーを悪党どもから守るダークヒーロー誕生譚。お話の第一回。 バットマンと明示しないバットマンなわけです。うん、こういう方法論、いいと思う。 最後まで我慢して観てほんとよかったんだけど、さて、ひるがえって考えてみるとラジオDJであることはほぼ活きてない。ポエミーで衒学的(だからむしろ頭悪い番組な印象)なナレーション、モノローグは聴くに絶えずむしろいらない設定だったのでは? と思う。 刑事役のテレンスハワードはよかった。端正で知的。最後の最後、勇気ある者(The Brave One)とは誰かといったら彼であることがわかるわけです。そして幕。エンディングはほんとに掛け値なくよかった。

「ラストスタンド」The Last Stand, 2013.

 午後ロー210219の録画をいま頃観た。 導入部5分で「あー低予算ね」と見切りをつけるというか見切るというか侮(あなど)ってしまったわけだが、これがどうしてどうして。予想外に良かった。 シャツェネガという(かつての)ビッグネイムを迎えつつ決して大向うを狙わない、むしろ低予算の限界を見切った上でその範囲内の無理ない成功を目指している。そういう手法が功を奏してまとまりのいい小品、しかし傑作に仕上がっている。 新味を出そうとか奇を衒(てら)おうとすればラヒーになったりキンダガになったりする。許せぬ悪をシュワちゃんが討つ! 殺したあとには捨て台詞(ゼリフ)。ただそれだけ。当たったシャツェネガ映画のオーソドキシーを忠実に守ったのが勝因だろう。 「違法駐車は高くつくんだ」で幕。洒落てる。オープニング回収。グッド!👍 シュワルツェネガ本人の老い、をも題材として上手に取り入れてあるのもまた良い。老いたるとはいえ調子こいた若造にはまだまだ負けんぞ、と。 全米ライフル協会擁護にも見えるシーケンスがあるが南部の保安官ものであればまあ致し方なしか。 ナチ野郎をぶっ殺しまくったガトリング砲にはもうちょっと活躍して欲しかったかな。屠ったのせいぜい3,4人じゃなかったか。もうちょっとこう、景気よくね。悪党どもを。 午後ロー版、玄田哲章吹き替えもまたうれしい。名調子! ラストスタンド(吹替版  アマゾンリンク )

「メッセージ」Arrival, 2016.

 フジ深夜Tナイトの録画をいま頃観た。 コンタクト物としてとても良く出来ていて観ているそばから興奮した。「未知との遭遇」式の演出はさすがにいまは通用しないよね。「実際にこういうことがいま起こったらどうなるか」のシミュレーションがずっとリアル。だからアプローチとしてはシン・ゴジラと同じなんだけど、リアルを描くその文法が違う。あっちは早口喋りの濃密なテクスト情報量。こっちはゆったりとヴィジュアルで見せて行く。庵野演出はあれでいいしこっちにはこっちの良さがある。 導入部でミスリード、ムービートリックがあんだよね。時系列をあえて誤読させるように作ってある。うん、最初のお母さん役の時より講義に出る彼女、なんか若やいでんだよね。たぶんメイクとかちゃんと変えてんだろう。 中国人民解放軍が率先して悪者になる展開もちゃんと回収される伏線。 時制なく世界を見れるのなら爆薬にもっと早く気付けないのか。そういうオールマイティーな能力ってわけじゃないのか。ってのはちょっと思った。 彼女は世界を救いファーストコンタクトを成功させたわけだけど、手放しで喜べない苦いエンディングでもあった。成功の代償にしてはあまりにつらい。恋の成就も新しい命の誕生も、その先を知っている彼女からすればロマンチックでもまったき喜びでもない。諦めが先に立つ人生。俺だったらちょっと耐えられない。凄みというか鬱みのあるSF映画だ。 メッセージ(吹替版。アマゾンリンク)

ハドソンホーク Hudson Hawk, 1991.

 これ、面白いと思ったひとこの世にいるんだろうか? 午後ローの録画をいま頃観た(たぶん過去5回くらい録画してて今回初めて観た)。 ジョエルシルバーと言えばダイハード、マトリックス。ヒット作連発の名プロデューサーである。 監督が悪いのかなあ。悪いんだろなあ。マイケルレーマン。華々しいフィルモグラフィーはない。 ホン(脚本)もひどいんだろうねえ。しかしデスーザだ。コマンドーの。ということはもうひとりのダニエルウォーターズに疑いがかかるが、ウィリスの関与も大きかったらしい。製作に関わるべき才能ではなかったようだ。 ホークが5,6っ回は「ムショから出たばっかだってのに!」って最初の20分で繰り返す。語るべきことが何もないため無駄ゼリフを連ねてる感が半端ない。そして歌い出す。ミュージカル? そういうわけでもない。 演者全員「これ大丈夫なのか?」って不安に思いながら精一杯気を張ってゼニ仕事をしてる、そんなふうに見える。 世界征服の企てを阻止する英雄譚、なんだけどその中でも最低ランクの作品に違いない。見事91年ラジー賞の栄冠に輝いている。 修行か? っつーくらいに苦痛で退屈な一時間半(午後ロー尺)であった。 ハドソンホーク(アマゾン)
 

Fluid Motion. Ryzen. Radeon. APU. PowerDVD.

よくわかんねえんだよな。 Ryzen7 5750G搭載のデスクトップを買って、買ってから気づいた。ああ、AMDのグラボ内蔵だからフルイドモーションとかいうの使えんのか、と。それ目当てで買ったのではなかったが、使えんなら使ってみよう。 持ってたのがうまいことにPowerDVD14。内蔵グラボとこれのセットでブルーレイがヌルヌルいくわけでしょ? んー。いかない。 だいたい、AMDのドライバソフト(アドレナリンなんちゃら)にそういう設定項目が出てこない。 フルイド関連をググりだすとこれはもう、ネットの情報は当てになるのかならないのか。つまりなんというか、いう所の「おま環」というやつである。うまくいっているひとは2022年現在でもPowerDVD & Radeonでフツーにヌルヌル観てるし、うまくいかんひとはなにやっても駄目状態だし。 俺の場合は結局ブルースカイなんちゃらとMPCなんちゃらの組み合わせでやっとこさヌルヌル動いた。動いただけラッキーなんだけどあんまり釈然とはしない。やっぱり使い慣れたPowerDVDで動いて欲しかった。 Fluid Motionに関してAMDとしてもCyberlinkとしても動作保証をしている状態というのはとうに終了している、というのがググりまくって疲弊した俺の感想である。保証もしてなければ「終わりました」の公式アナウンスもない、なんとも宙ぶらりんな気持ち悪い状態のようである。 PowerDVD14でもこうやって使えないながらグレーアウトで機能の存在は示唆している、ってのがまさにいまこの機能の置かれた状態そのものをあらわしている。 使ってみた感想は、楽しい。ヌルヌルで面白い。 しかし、演算スピードが遅れて不自然にズレが生じているようにも見える。リップシンクが明白にずれることが多い。 またアニメーションに顕著だが背景の等速移動が完全に滑らかになるせいで逆に「これは背景の上に平面のセル画が乗ったアニメーションという技法の一種のだまし絵ですよ」感が強まる感じがある。 でもまあそれも含めて面白い。 実写の映画だと映像そのものが生っぽくなる。かつてのテレビで言うところのスタジオVTR撮り(フィルム撮りより秒間フレームが多い)的になる。安っぽくなる、という感想も当然わかる。俺は面白くていいな、と思う。オリジナルにも良さがあるわけだから、両方を楽しめ

外付けモニター使用時に動画の白っぽさをなくす AMD, APU篇

Ryzen7 5750G APU搭載パソコンを買った。 初めてのAMD CPU。どうも慣れない。 デスクトップ画面を右クリックしてもインテルグラフィックスコントロールに相当するものが出て来ない。だから画面の調整そのものができない。 調べるとAMDのページに行って自分でグラフィックソフトを落としに行かなければならないようだ。 AMDのドライバー&サポート ツールをダウンロード、自動検出した結果入ったのがアドレナリンなんちゃらというソフト。 これが面食らった。ゲームがどうたらゲームがどうのこうの。ゲームゲームゲーム。いや、ゲーム用のソフトなんかいらねえよ、俺はAPU用のグラフィックドライバーを入れたいだけなんだよと思ったのだがどうやらこれがそうらしい。 歯車アイコンでやっとグラフィック設定らしきページに入れたけどこれがまたゲームに全振りで インテルのそれ と全く勝手が違う(最近のインテルグラフィックスもゲーム寄りではあるようだが)。これがそうかな? これなのかな? と手探りで馴染みの必要な機能をオンにしていく。 まず① 画面の階調を制限範囲から全範囲に これがインテルのそれと用語が違う。「ディスプレイ」の「ピクセル形式」で「RGB 4:4:4 Pixel Format Studio (Limited RGB)」から「RGB 4:4:4 Pixel Format PC Standard (Full RGB)」にする。これでまずデスクトップ画像の白っぽさが消える。白い文字の灰色っぽさが消えちゃんと白くなる(そういう変化がわかりやすいデスクトップ画面に設定しておくとよい) そして② 動画のコントラスト自動調整をオフる この②についてはやる必要がなかった。コントラスト自動調整という機能、項目自体が存在しないからだ(ずいぶん探した。2022年7月14日現在)。いまカッコに日付けを入れたけどそれには理由があって、どうもググるとAMDのグラフィックドライバーは仕様変更がずいぶん頻繁で、そういう機能が存在した時期もあったようなのだ(名前もしょっちゅう変わる。カタリストだなんだ)。 つか、動画のカスタム機能枠で設定できるパラメータ、なんと今日現在「明るさ」のみ。 しかもこれ、名前つけて複数記憶、とかできない。数値変えたきゃその都度手変更。用途別の適正な明るさを自分でメモなりなんなりしとか

THE GREY 凍える太陽 2011

午後ローの録画をいま頃観た。 事故後の展開が「なんで?」の連続。飛行機一個落っこったら管制塔大騒ぎ、全力で探すに決まってるので「ここで待ってても誰も来ない。南へ向かうぞ」がまったくイミフ。 あーB級映画だバカ映画だあとはラストまで苦痛に耐えるだけだなと思ったら最後の30分は良かった。なるほど、ここに持ってきたいがための少々無理無理の導入部だったのね。 「生きて帰ったところでなにもないんだよ俺は。昼は穴掘って夜は酒呑んで喧嘩。もういい。疲れた」 これは胸を突かれた。これを見せたいがためのあのワル、クズっぷりだったのね。 「おい、見てんだろ? お前に言ってんだよ! いるんなら証明してみろ! 後でじゃない、いますぐ!」 だが答えない神。答えないのではない。いないのだ。もともと。 そしてエンディング。父親の四行詩。最後の30分はとても良かった。 なるほど、製作にリドリースコットが噛んでるのか。それで、と思いかけたが、トニースコットも噛んでるので「それで」と逆の方向に思い直した。
 
 

バットマン The Batman 2022

THE BATMAN-ザ・バットマン-(吹替版)( リンク ) 導入部のワクワク感は凄かったんだ。新しい。多勢に無勢で敵わない、衆をたのんでいるだけのクソみてえな不良どもをまとめてボッコボコにしてやるという少年の日の夢。殴り方がスーパーヒーローの完璧な殴打でなく微妙にしろうと臭いところが逆によかったのだ。ごり。ぼくっ。多少殴り返されたりして。リアルファイトのリアリティー。 飛ぶぞ! 飛ぶ! まじに? できるのか、俺? からのダイブ。そして完璧とは行かない、現実にはこうなることもあるよねだってスーパーヒーローじゃないから、俺ただのコスプレおじさんだからな満身創痍の着地。恐怖と闘いながら無理無理ヒーローやってるひと。これは新しいバットマン像の構築に成功したんじゃないか。 しかしラストは、んー。水門爆破、洪水、新市長暗殺。要素てんこ盛りにして「どうだ!」と差し出されても。クライマックスなんで、ってそれだけのあれ。積み上げたリアリズムがシューッとしぼんでいくのがなんとももったいなかった。 あんだけ狙撃者いんだからいらねえじゃん洪水。
 

続・荒野の七人

 一作目を観てないままいま頃観た。午後ローの録画で。 まああんま良作ではないよな。 エピソードが羅列的で、それを機械的に消化していく、そういう平板な脚本に見えた。ひとのやってるゲームをそばで見てる感じだ。 中身が薄いのでやることやってしまうとたぶん40分くらいで終わってしまう。だから無理無理おんなじこと(襲撃しちゃ戻り襲撃しちゃ戻り)繰り返すのでなおさら話の密度は薄くなる。しかしそれは映画が元気だった時代の証拠でもある。ひとは観るための映画を欲し、作ればそれにひとは入ったのだ。 黒澤作品の翻案なので劇伴なんかもちょっと影響されてたりする。しかし映画の出来はまったく雲泥の差。ルーカススピルバーグが黒澤に心酔したのも無理からぬことである。ハリウッド娯楽作の水準が粗製乱造で凋落していた時代。 しかしユルブリンナーの存在感はピカイチで、だからもちろん主役なのだし絵になるし。三船が三船という肉体で勝負しているのと同じに。たいした話でないのにともかく映画が締まる。午後ローのリマスター具合も相まってこれは絵面を見る映画だ(繰り返すが内容はしょぼい)。 彼のこの名演、存在感がウェストワールドでの起用につながっていく。役柄としてはまったく同じ役だ。イコンとしてのガンマン。 フェルナンドレイの登場におっと思った。あの名優がこういう映画で割とどうでもいい使われ方をしていたのだという軽い驚きがあった。
 
 
 

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム SPIDER-MAN: NO WAY HOME

   https://amzn.to/3wLc1ia ブルーレイでいま頃観た。 いやー、めちゃめちゃ面白かった! どんくらい面白いかっつったら、デューンやレザレクションはもっぺん観る気には全然なんないけどこれは違うぜ! っていうそういうおもしろ度。 ツイッター経由でマルチバースマルチバースいう単語は流れてきたけどそれは俺には全然ネタバレにはならなかった(40という俺のフォロイー数とその質に感謝)。なるほどこういうことか。いや感激した。 「またかよ! また誕生譚かよ!」と冷ややかに見られるのが常、というか宿命であったリブートというやつがまったくその意味を変じる仕掛け。旧作の世界線と幸福な関係を結べるのだ。ていうか結んでた。確かに結んでた。三人のピーターパーカーが互いを尊敬し協力するマリアージュ。 「チームワークで行こう。僕はアヴェンジャーズにいたからチームで動くことを覚えたんだ」 「うん、そうだな。なにアヴェンジャーズって」 「バンド?」 「アヴェンジャーズ知らないの? てかいないの? アヴェンジャーズ」 マーヴェルユニバースに参加したこともスパイダーユニバース、もといマルチバースを確実に豊かにしている。 そう、マルチバース。スパイダーバース。既にあの作品でこのアイディアは十全に開陳されていたのだ。だからたぶん勘のいいひとはFar from homeのラストでとっくに気づいていたのだろう。次作は実写版スパイダーバースだと。トビーマグワイア登場だと。 スパイダーマンの正体を扇動的煽情的にがなり立てるネットニュース「デイリービューグル.net」。キャスターのハゲ親父、なんだか見覚えがあるぞ? そう、サムライミ版の新聞社デイリービューグル編集長。メディアは違えどどちらも黄色ジャーナリズム。片やPV至上主義、片や部数至上主義。彼の本質は変わりない。 たぶん同様の仕掛けがアメスパについても探せばあるはずだ。 面白さと引き換えに代償も用意されていた。なかなかにつらい結末、厳しく切ない落とし所。しかしこれこそまさにスパイダーマン、その本質たる叙情なのだろう。ピーターパーカー(という存在)は(どこの次元の彼であろうと必ず)この厳しさ切なさつらさをひとりで耐えねばならないのだ。なぜか? 大いなる力を手にしている、その代償に。 ひとりではなくチームで、そして「椅子に座ってるひと」の援護の
 
 

マトリックスレザレクションズ The Matrix Resurrections

  まいっちゃったねどうも。 今回アンディー(現リリー)は関わってないの? そのせいもあるんじゃないの? やっぱマトリックスの魅力・成功は哲学・体制批判と脳みそ空っぽアクションの絶妙なバランスにあったわけだから。なにか車輪の片方を欠いている気がする。 ラスト空中で止まっててヘリ三機の攻囲を受けててそれで「プラグ抜きました戻りました」じゃ意味わかんねえよ。それまでのチェイスの意味は? 紫髪姐ちゃんの顔の濃いこと。アジア人蔑視か! ってそうじゃない。キアヌの魅力はそれにあるんだし俺もアジア人だし。なんかハチ公前とかコンビニとかで適当に拾ってきた感のあるひとでなあ。ありがたみがまるでない。ばかりか、濃さの圧で画面登場するたび顔をそむけたくなる。 主役級の顔じゃないよ、どう見ても。 キャリーもなあ。三部作後半で既に加齢してたのに、今回の起用はあり得ないよ。顔立ち完全におばあさんじゃないか。彼女にとっても酷だよこれは。 撮影中製作中からスタッフ役者みんな思ってたんじゃないかなあ。「つまんねえよ。これ絶対当たんねえよ」。なんかそんな気がする。 脚本段階で撤退なり断念なりできただろうに。なんでワーナーはこれにゴーサインを出してしまったのだろう? マトリックスの世界観を引用した長大(で退屈)な映像詩。社会批評としてもアクション映画としてもまったく現在と切り結んでいない感じがした。 しかしこれを監督ラナ(旧ラリー)の、手術を経たトランスジェンダーの苦しみの記録としてみるとなるほど一篇の私小説感はあるかなという気もする。 でもいずれにせよもっかい観る気にはまったくならないなあ。いっぺんでおなかいっぱい。ていうか満腹感ばかりで満足感はない。別のもん食えばよかった、っていう。 Vフォーヴェンデッタと同じつまらなさだったね。理が先に立って話がなおざりで。ウォシャウスキー兄弟(現姉妹)、才人なのにこういうつまずきをする癖がある。 最後の最後のキャトリックスがまた蛇足で。クスリとも笑えなくて。どうしちゃったんだ、ラナ。
 

赤ちゃん本部長「赤ちゃん本部長と優しさの裏側!」

NHK総合でなんかの隙間とか深夜とかにちょろっとどかっと不定期にやってる赤ちゃん本部長。毎回マジョリティーの蒙を啓く素晴らしい展開なのだがとりわけ今回は秀逸。そのスタンス自体の陥穽を批判的に見つめるメタ的視座の必要、を説く力作なのだ。 「紙とペンでよりよい社会を作るため」というセリフで明らかなように社内報担当岸谷芽衣は進歩的ジャーナリズムを象徴する人物。その彼女を「別名 善意の悪」と呼ぶほど本部長は彼女に手を焼いている。 根掘り葉掘り在日コリアン三世としての境遇を訊き出される新入社員の一ノ瀬君。「え! 社内報には載せないで下さい」「なんでですか? 知ってもらういい機会だと」 「もうやめろ岸谷! 理解されたいわけじゃないんだ」。制止する本部長。しかし岸谷には馬耳東風。「あー今日もええ仕事したでー。あ、健康診断の結果届いてる」 マイノリティーに、被害者に、当事者になることでしか理解できないもの。「あなた自身が声を上げていかないと世の中よくならないのよ!」と取材対象者にだけアウティングを強要し生活の資とエーコトシタ感を同時に得る鈍感な者たち。たった五分の物語に「味方然としてすり寄ってくるジャーナリスト、社会活動家たちにマイノリティーが味あわされてきた苛立ち、苦悩、困惑、怒り、絶望」が見事に凝縮して描かれている。 差別の苦しみは差別主義者だけがもたらすものではない。出色の名作。
 
 

ノー・タイム・トゥ・ダイ No time to die

ネットで概ね悪評ばかりの印象があったんで観たら意外に面白かった。うん。先行して悪評ばかりに接していてよかった。 クレヨンしんちゃんだよね、これ。 クレヨンしんちゃんの映画ってダイハードやコマンドーやダブルオーセブンをベースに作られてんだけど、これ逆にしんちゃんの映画に影響受けてる。そんな気がする。 ジェームズボンドがお父さんになる話なんだよね、これ。つまり野原ひろし役。しんちゃんは出ないけどみさえとひまは登場。 お父さんになったからもう行きずりのアヴァンチュールは楽しまないし家族を取り返すために戦う。家族を守るために覚悟を決める。 チームが集まって静かに彼の死を悼む。あれがまたよかった。ジェームズボンドは彼らにとって単なる仕事の付き合い、偶然の同僚ではなかった。友達であり仲間だった。大英帝国の利害よりももっと大きななにものかを守り、それに殉じた。冷笑家が鼻で嘲笑う存在、正義の味方だった。だから彼らはジェームズに惚れ、固い絆で結ばれた。彼らはジェームズの遺志を継ぐはずだ。 そして流れる馴染みの歌。シリーズに対する敬意も込めつつ、ダニエルクレイグの007を終わらせる鎮魂歌としてもふさわしい、感動的な終幕だった。 そう、マルチバースで言えばこれはダニエルクレイグの007シリーズだったのだ。連作としても見事に整合性があり、流れがあり、そしてなにより、終わらせた。完結したからこそ永遠性を獲得したのだ。 CIA(だよね?)の姐ちゃんよかったね。可愛くてエロくて大サービスのアクション。最初にへどもどド素人の如く振る舞うとこが逆のリアリティーを獲得してまたよかった。そうだよね。わたしは超一流のスパイ然と振る舞う方がむしろ背伸びしたい盛りの中二病だ。
 

DUNE/デューン 砂の惑星

  最初から気になっていた「美し過ぎる母親」のもたらす不自然な緊張感が終盤の着替えで「やはり!」と確信に変わる。母は美し過ぎる息子を異性として意識している。 エンドロールでシャーロットランプリングとか流れっから「え! 若い!」って驚いたけどさすがにこの母ではなかった(レベッカファーガソン)。 説明過多を避ける演出が良かったけど、じゃあ面白かったかっていうと。ヴィルヌーヴ監督はブレードランナーの時と同様タルコフスキーをやっているのだろうからこれはどうしてもアートフィルムだ。要素を極限まで絞った画面構成。やや退屈なお能。 俺はタルコフスキーもデューンの原作も観てないし読んでないのでやはりこの映画化がよくできたものなのか真贋軽重を測りかねるとこがある。 スターウォーズ、ナウシカがデューンの多大な影響下にあることは今回よくわかった(俺はリンチのデューンも観てない)。砂漠。ひとを操るフォース。王蟲(はもちろん絶対ウォームから来ている)。マスクをした砂の民。侵略者に殺される王。風を読むお世継ぎ。が、皇帝に復讐を果たす流離譚。 墜落、は監督のモチーフであろうか。 「驚くのはこれからよ」で話が終わる。あれあれ。ほんとに導入部で展開もなく終わってしまった。興収大丈夫なのだろうか。続きは作られるのだろうか。